活字逃避
佐竹は「これではいけない」と思いながらも本を読んでいる。部屋でも外でも読んでいる。退職後、特にすることがないので、読書三昧の生活だ。文庫本からハードカバーの分厚い本まで読む。鞄はそれを入れるための袋。ブックカバーのようなものだ。本入れのために買っている。普段の持ち物は服やズボンのポケットに入る。だから鞄はいらない。
これではいけないと感じたのは、本の世界に入り込んでしまうためだ。色々な人物になれる。学者にも想像上のキャラや、実在の英雄豪傑から、軍人や政治家に。これがいけない。
読んでいるときはそれらの人物や時代や世界の中にいる。そしてふと活字から目を逸らすと、現実がそこにある。自分自身に戻ったときだ。生きている世界が全く違う。
痛快な小説を読んだときなど、特にそうだ。自分を省みてしまうのだ。何と平凡で語るようなエピソードの少ない人間かと。といって私事をくどくど、惨めに書き連ねたものならいいのかというとそうではない。この本の主人公に比べれば、自分はましだということでもない。
それは佐竹にとり、一種の逃避なのだ。現実から目を逸らし、別世界で遊ぶ。本から知識を得たりする気は毛頭ないので、その手の教養書は読まない。
かなり昔の人が書を読んでいたのは、学を身に付けるためだったりする。佐竹がやってきた仕事は、そんな学などいらない。だから読まなかったのかもしれないが、また、そんなことを本には期待していなかった節もある。
このままではいけない。と、佐竹は本を読むのをやめようとした。ただの遊びなのだ。
佐竹はこれまで膨大な数の本を読んできたのだが、何の役にも立っていない。その役立ち方が現実逃避なので、そんなことで役立っても仕方がないのだが、この逃避で嫌なことから目を逸らせることができたり、低まったテンションを上げることもできたので、悪いことばかりではない。
しかし本を閉じ、我に返ったときの違和感が気になる。こういうのを活字中毒というのだろうか。漫画や絵や音楽ではなく、活字なのだ。それを読み進めることで世界が浮かび上がる。映像が徐々に浮かび上がり、小説には書かれていない表情まで出てくる。
しかし、もうこんなことはやめようと佐竹は本を買うのを控えた。徐々に減らしていかないと、禁断症状が起こるからだ。
これは本の世界ではなく、自分の現実に戻ろうという話ではない。
三村にとって本は娯楽の過ごし方の一つ。だから、あまり娯楽にばかり熱中しないでおこう程度だろう。
了
2016年2月7日