小説 川崎サイト

 

無料の人


 先輩のイラストレーターが引退すると聞いて、下田は真意を確かめに行った。
「もう年だからねえ」
 と、簡単な事で、深い意味はなかった。先輩は下田より一回り以上離れている。
「年には勝てんよ」
 先輩はイラストレーターなのだが、絵を書いているだけではなく、色々な企画をしたり、プロディーサーの真似後をしたり、また、本の装丁をしたり、取材をしたり、インタビューに行ったりと、忙しい人だった。
 下田もこの親分の紹介で仕事をもらうようになってから、提灯持ちのように、付き従っていた。餌をくれるからだ。
「もうお仕事はしないのですか」
 下田が見た感じ、先輩はまだ元気そうで、つい先日も誰かの出版記念パーティーや演劇の打ち上げに顔を出していた。だから、そのあたりの関係でのパフォーマンスかもしれないと勘ぐったのだ。しかし本当らしい。仕事に疲れたのだろう。
「今後はどうされるのですか」
「ああ、絵でも書いてのんびり暮らすよ」
 下田が出た芸大の先輩なのだが、デザイン系ではなく、油絵の人だった。
「まともな絵などもう何十年も書いていないからねえ」
「そうですか」
「それに人の絡む仕事はもう疲れたよ」
 この先輩ほど人付き合いの良い人は珍しいほどで、色々な仲間と一緒に仕事をするのが好きな人だと下田と思っていたのだが、どうも違うようだ。
「もっと早くやめたかったんだけどねえ。君みたいに」
 下田は四十になったあたりで、もう仕事がなくなり、引退宣言などしなくても、引退したようなものだった。それからかなりの年数、引退後の生活を続けていることになる。そのため、この先輩より、その方面では大先輩にあたる。
「君も好きな絵を書いて暮らしていたのかね」
「いえ、絵そのものはもう書いていません。お金になりませんからね。昔は先輩のお世話になりましたけど」
「あ、そうだったね。あちらこちらに君を推薦したり、押したこともあるんだが、だめだったよ。悪かったねえ。役に立たない先輩で」
「いえいえ、それは実力ですから、イラストレーターなんて、腐るほどいますから」
「ところで、君は何をして暮らしているだ」
「家業を継いでいます」
「家業」
「ビルの管理です」
「ビルを持っているのかね」
「親がです。それを引き継いでいるだけです。もう古ビルですが」
「じゃ、食うには困っていない」
「はい」
「忙しいの?」
「え、何がです」
「管理が」
「いえいえ、妻と子供に任せています」
「あ、そう。楽隠居か」
「先輩は引退したのではなく、これからは御自身の絵を書いて行かれるのですね」
「そのつもりだが、普通の絵じゃ食っていけないからイラストをやり出したんだ。イラスト一本だけでも年を取ると仕事がなくなる。君と同じだよ。だから、色々なことに首を突っ込んで、イラスト以外の仕事を増やした。最近じゃ、イラストは実は書いていなかったんだ」
「じゃ、これからは油絵を」
「そうなんだがねえ。自分が見るために書く絵は何か淋しいよ」
「いえ、先輩の絵なら、売れますよ」
「だから、そういう売り物から引退したんだよ。絵だけじゃ、売れるもんじゃないからね」
 それは、この先輩の世渡りを見ていれば分かる。イラストが特にうまいわけではないが、クライアントが求めているそのど真ん中の絵が書けるためだ。これは、先輩が絵よりも人の気持ちを読むのが上手なのだ。この人はこういうものを求めているというのを掴むのがうまい。それに疲れたのかもしれない。
「ところで君は普段、何をして過ごしていたのかね」
「絵も書こうかと思いましたが」
「私にも書けるだろうか」
「普通の絵が書きたかったのでしょ」
「そうなんだが」
「遊びでいいんじゃないですか。適当に書けば」
「それがだ」
「はい」
「クライアントやオーナーの意向はよく見えるのだが、自分の」
「え」
「自分が何が欲しいのかが、実はないのだよ」
「え」
「だから、私がどんな絵を書きたいと思っているのか、それが分からんのだよ」
「意味が分かりませんが」
「気兼ねなく絵は書きたいが、どんな絵が書きたいのかがさっぱり分からん」
「はあ、それって、職業病ですねえ」
「そうかね」
「自分の好みを殺し続けたからですよ。自分が喜ぶよりも、人が喜んでくれる方が嬉しいのです。それにお金になります」
「ほう。君もそうかね」
「そうなんです。僕も仕事がなくなってから、自分の絵でも書いて過ごそうかと思いましたが、張り合いがないのですよ。自分の好みをそのまま書くってのは」
「うむうむ。やはり君の方が先輩だ」
「引退後の年数が長いですからねえ」
「で、結局どうなるね」
「ただの人になりました」
「ただの人」
「無料の人です」
「はあっ?」
 
   了



2016年2月18日

小説 川崎サイト