小説 川崎サイト

 

河童のいない川


 日下は昔の同僚とばったり出会った。二人とも自転車に乗っている。日下はスポーツ車で、スタンドのないタイプ。その元同僚は普通のママチャリで、フロントとリアにそれぞれカゴを付けている。この同僚、現役時代は車で通勤していた。もう乗っていないのか、町内の移動だけなら、自転車で事足りるのだろうか。
 下田は久しぶりなので、座って話せる場所を探したが、近くに飲み屋も喫茶店もないので、道路脇にある公園に誘った。同僚も特に用事はないらしく、それに従った。
 小さな公園で、ベンチはなく、仕方なく石段に腰掛けた。
「草原だなあ」同僚がいきなり語り出す。
「草原」
「ああ草原だ。腰のあたりまでの高さの草が拡がっている」
「ほう」
「湿地だろうねえ」
「草がどうかしましたか」
「そこに立つ」
「ええ」
「風に吹かれながら立つ。それが私の趣味だ」
「そんな場所ありますか」
「あるんだ。秘密だけどね」
「草原に立つのですか」
「立ち尽くす。風で草がなびく。まるで波のように」
「子供の頃の麦畑を思い出すなあ。しかし、そんなところに立って、何をするの」
「何もしない。立っているだけ。そのまま黙想する。立ったまま座禅するようなものだが、目は開いている。立禅だ」
「ほう」
「すると、色々なものが出てくる」
「虫とか、鳥?」
「河童も出る」
「それって、有名な河童のいる川じゃ」
「そうなのか」
「河童の出る葦原のような場所でしょ」
「そこに立っているとね。河童が近付いて来る」
「ほう」
「ずっと立っているから案山子と間違えたんだろうねえ。人とは思わず」
「しかし、案山子を見て、人だと思って近付かないんじゃないですか」
「案山子だということは、もうばれているんだろうねえ」
「賢い河童だなあ」
「いや、鳥だって気付いているよ。大昔から」
「それでどうなったのかな」
「河童はそっと様子を見に来たんだ。そして、私に触れる。蛙のような手でね。しかし以外と生温かい」
「水かきがあるんですね」
「そうだ」
「それで?」
「それで私が無反応なので、得心して、去って行く」
「ほう」
「これが私の最近の趣味だ。で、君の場合はどう。いい自転車に乗ってるけど、サイクリングとかに出掛けるのが趣味かい」
「たまには行くけど、自転車そのものが趣味なんだよ」
「あ、そう」
「この自転車、スポーツ車のように見えるだろ」
「見える。タイヤが糸のように細いし」
「しかし、ギアがない」
「変速機がないのかい」
「一段変速。だから無変速」
「じゃ、競輪用かい」
「ペダル側とリア側に歯車を数枚仕掛けてあるんだが、取り払った。どうせ変速機なんて使わないからね。坂道なら突いて歩く方が早い。軽いからねえ、片手で持てるほど軽いんだよ。それにスピードなんて出さないから、変速機はいらないんだ」
「じゃ、私のチャリと同じか」
「三分の一ほど軽いよ」
「盗られないようにすることだな。これはカギはないけどどうするの」
 日下は鞄から輪っかを取り出した。手錠のような。
「ああ、なるほど」同僚は納得したようだ。
「ところで、河童のいる川なんだけど」
「君も行くかね」
「興味がある」
「自転車でも行けるよ」
 日下はこの近くの川で、そんな草原のある場所を思い出そうとしたが、出てこない。
「じゃ、行こう。今から」
「そ、そうだな。僕も河童に触られたい」
 自転車に乗った二人は、同僚のママチャリを先頭に、走り去った。
 
   了




2016年2月19日

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