小説 川崎サイト

 

花咲ちくわ


 仕事はしていなくて、自炊をしている竹中は、夕方になると憂鬱になる。それは夕食が決まらないときだ。夕方前、竹中は長距離散歩に出る。これが仕事のようなもので、そのついでに夕食の食材を買うのだが、食欲がなく、しかも食べたいものが見付からない場合、その憂鬱が始まる。だから、常に夕方になると憂鬱になるわけではない。例えば昼に買って食べた巻き寿司などが残っていると、それを夕食にできる。だから、その夕方は憂鬱ではない。また散歩中、食べたいもの、それはお好み焼きでもすき焼きでも何でもいい。それがぴたりと決まれば憂鬱ではない。
 また食欲がないときでも、高い蕎麦屋で天ざるを食べることを思い付いたときも、その限りではない。だから、始終夕方になると憂鬱にはならないのだが、その夕方はその当番日に当たっていたのか、憂鬱になった。つまり食欲がなく、買い置きの食材や作り置きのおかずなどもない日だった。こういう日は卵でも焼いて食べればよいのだが、それでは味気ない。たとえ買い置きのちくわが残っていても、それでは満足が得られない。
 学生時代はインスタントラーメンにちくわを入れて食べていた。今は焼き豚を入れても、それほど食べたいとは思えない。
 さて、それで憂鬱なままスーパーの前に差し掛かった。そのまま戻れば卵焼きかちくわだ。ちくわ入りの卵焼きも悪くはないが、どちらも、何もないとき用で、今はすぐ目の前にスーパーがあり、何もなくはない。すぐに、あるになる。買えばいいのだ。こういうときは作るのが面倒なので、弁当類になる。スーパーの弁当はボリュームがあり、それに安い。しかし、そのスーパーにある弁当は限られており、いつも同じものなので、食べ飽きた。あの緑のビニールのような草の仕切りを思い出す。おかずとおかずを分けている芝居の書き割りのような先端がギザギザになった偽の草だ。それをレンジでチンするのが嫌なのだ。また僅かに入っているキャベツもチンにすると、妙な食感になる。キャベツの葉が快く歯を振動させてくれない。なまくらの刀のように切れ味がない。
 そういう日はパンでも買って、それをかじるのが好ましいが、菓子パンの甘いのは、夕食にはふさわしくない。胸焼けすることもある。朝のパンはいいが、夕食のパンはいけない。
 結局竹中はスーパー前を素通りした。家までの道に、まだコンビニと牛丼屋がある。卵焼きとちくわに至る前に、まだチャンスがあるのだ。
 牛丼屋で牛丼を食べるだけの気力がない。これは食欲だろう。肉が食べたいという気がしないのだ。そして、あの丸くて高い椅子は居心地が悪い。油断すると回転する。しっかりとカウンターにしがみついていないといけない。それに老眼鏡を忘れてきたので、食券機の文字が読めない。絵は見えるが、面倒だ。
 そうなるとコンビニだ。しかし、何が食べたいのかが思い付かない。
 この憂鬱を愉快な気分のさせてくれるだけの食べ物があれば、何となるのだが、コンビニでは無理かもしれない。しかし、何とか絞り出せば、良い案が出るかもしれない。
 だが、その案を捻り出す気力もなくなり、コンビニ前も通過した。もう残るは卵とちくわでご飯を食べることだ。窮地に追い込まれたわけではないが、絶体絶命だ。
 家に戻った竹中は、卵を焼く気力も失せ、ご飯にお茶を掛け、小さな皿にちくわを乗せ、それを食べかけた。
 そうか、ちくわ茶漬けか。
 俄然気が良くなり、竹中はちくわを掴み、台所でそれを細く五円玉のように輪切りにした。それをお茶漬けに入れると、花が咲いたようになった。
 竹中の憂鬱な気分は、これで晴れた。
 
   了

 


2016年2月29日

小説 川崎サイト