小説 川崎サイト

 

橋の向こうの安アパート


 まだこんなアパートが残っているのかと思うような枯れた木造の建物に中村は住んでいた。侘び住まいだ。結構高齢だ。フリージャーナリストとして活躍した人で、著書も何冊かあるが、結局は個人事業主にすぎないので、仕事が切れたあたりから住む場所も変わり、今は四畳半一間で、二階の裏窓の下は崖のようになっており、そこにドブ川が流れている。その川の錆びた鉄の小橋を渡ってくる男がいる。中村の知り合いで滝田という元編集者。
「久しぶりですねえ。どうです、最近」
「食べ過ぎて体調を壊したよ」
「それはいけない」
「運動もしないしね。君はほっそりとしているけど、あまり食べないのかね」
「いえ、これは体質です」
「運動しているからかな」
「ええ、散歩でよく歩いていますし、車をやめ、自転車に乗り出してから調子が良いですよ」
「僕も食べ過ぎなければいいんだ。それも安いパンとか、おやつが多くてねえ。それを食べ過ぎたよ。食べ過ぎなければ太らなくて済んだのだ。だから体調も悪くならなかった」
「運動すればどうです」
「ああ、昔はよく歩いたねえ。記事は足で書く。それで日本中歩き回ったよ。それで歩きすぎたので、もう歩くのが嫌になった。移動が嫌になった」
「最近お仕事は」
「いや、さっぱりだが、本の増刷があれば潤うんだけどね。新書版も文庫化になれば有り難いけど、内容が内容なのでねえ。後の世に残すようなものじゃない。君はどうなの滝田君。君も仕事はもうしていないのだろ」
 滝田は出版社に勤めていたが定年になっている。
「そうですねえ」
「こうして訪ねて来たりするんだから、結構動いているねえ、移動は辛くないのかね」
「普通です。一寸遠出の散歩をする程度ですから、今日はこの近くまで来たので、寄りました」
「何処へ」
「ああ、梅林です」
「そんなのあったかね」
「はい、神社の裏側に梅園があります」
「ああ、あの神社かい」
「梅に鶯を狙いに来たのですが、雀しかいませんでした」
「あ、そう」
「中村さんも、色々と出歩かれては如何ですか。いろんな場所をご存じのはずですし」
「あれは仕事だから行けたんだよ。本当は出不精でねえ」
「でも体調が」
「そうなんだ。食べるのが運動になってしまった。しかし、それを減らせない。口が寂しいからね」
「だったら、なおさら歩かれた方がよろしいですよ」
「そんな気が起こらんのだよ」
「あ、はい」
「何処へ行っても似たようなものだし、銭にならんしね」
「でも体調が良くなりますよ。運動すれば」
「君はよくそうして意味もなく散歩ができるねえ」
「散歩よりも靴です」
「靴」
「はい、昨日買った靴の履き心地を試しています」
「く、靴。靴がどうかしたのかね」
「いえ、ただの靴ですが、気に入ったのがありまして」
「あ、そう」
「それと、この冬物の上着も」
「あ、そう」
「それと、このデジカメ、また買いましてねえ。結構望遠が効くのです。この大砲のようなやつを撃ちたい。それで、梅に鶯を狙って、ここまで来たんです」
「さっきから、何を言っているだ」
「だから、ここまで来た理由ですよ」
「そんなことをして、何の意味がある。君は表現者か」
「違いますが、靴の履き心地は今一つでしたが、これはまだ履いて間もないので、足が慣れていないのでしょう。幸い靴擦れは起きませんでした。踵のところに柔らかいのが入っているためでしょうねえ。だから、この靴、いけそうです。カメラの方は超望遠で近くを狙ったとき、ピントが合いにくいことが分かりました。迷うどころか、合わないのです。しかし、その癖が分かっただけでも収穫です」
「それは楽しいかね」
「はい」
「あ、そう」
「中村さんも、やられたらどうですか、取材とかでよく写していたじゃないですか」
「仕事だから写してたんだ」
「そうだったんですか」
「しかし、そうやって外をウロウロするのは運動になっていいねえ」
「そうでしょ」
「しかし、その気が起こらない」
「それは仕方がないですねえ」
「それよりも、君の後輩、まだ出版社にいるだろ」
「あ、はい」
「何か仕事がないかねえ」
「さあ、やめてから合ってませんから、どうですかねえ。それに中村さんは持ち込みでしょ」
「ああ、そうなんだが、体調が悪くて、ネタを探すのも面倒でねえ」
「最近はどうしておられるのですか」
「塾の講師をしている」
「それは仮の姿ですね。中村さんはまだ現役だ。私なんて、もう、趣味の世界で暮らしていますよ」
「今度来るときは、何か美味しい話を持ってきてくれないか」
「はい、心がけます。次は初夏に来ます」
「初夏」
「青葉の季節、この近くのお寺の裏側、原生林に近い場所があるんです。そこの新緑がいいんです」
「あ、そう」
「また来ますから、食べ過ぎないで、運動して下さいよ」
「ああ、そうするよ」
 滝田は立ち上がり、部屋を出た。
 裏窓から橋を渡る滝田の姿を中村はじっと見ていた。半ば羨ましく。
 しかし、俯き加減だったのが、妙に気になった。
 その年の初夏、滝田は現れなかった。
 
   了





2016年3月4日

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