小説 川崎サイト

 

垂井の一族


 垂井の北に古い村落がある。それほどの田畑はないのだが、豪邸が残っている。農家にしては大きすぎる。植え付け面積と屋敷数とが合わない。米だけでこんな家は建たない。それが一軒だけならまだしも、殆どの家が大きいのだ。大きな農家があるとしても、村の全ての家が豪邸なのは珍しい。
 この地は垂井氏の本拠地らしい。垂井というのは地名で、垂井一族は地元民ではない。ここを占拠した一族というより軍団だ。そのとき、垂井と名乗った。
 この垂井は大名にはならなかったが、大きな勢力のまま、大名家の傘下に入った。
 垂井一族が垂井に根ざしたのは神代の時代ほどに古い。鎌倉幕府以前、まだ武家が天下を握っていなかった時代からだ。その系図が残っているが、何と飛鳥時代から続いている。
 元々はこの国の始まりの頃からいた有力者の家来が垂井の祖だ。特に軍事方面で活躍していた。だが中央での勢力争いから内乱が起こり、その鎮圧で都を離れ、地方へ出兵していたのだ。こうして各地に出兵し、反対勢力を押さえに行った一族は結構多いが、中央であっさりと負けてしまい、その有力者は亡びた。しかし、主力軍の殆どは地方に散らばったまま。
 垂井軍は垂井周辺を占拠し、敵側の勢力を押さえ込んだのだが、中央には戻れず、姓も垂井と改めた。
 平家や源氏が出てくる以前の武家なのだ。この垂井家と似たような一族が全国至る所にいる。あのとき出兵して戻れず、その地で根を下ろした。そんな一族の数が二十家とも三十家ともいるとされる。いずれも中央を牛耳っていた大勢力の中枢軍で、それが中央にいなかったので、負けたのだろう。だから、数が多い。
 その中にはただの百姓になったり、大名や、その家来に仕えたりしながら生き延びてきた。一番多いのは豪族や大庄屋になったケースで、垂井家もそれだ。
 歴史の表舞台から早い目に消えてしまった有力者だが、その家来衆は生き延びていた。
 江戸時代になると、その二十家か三十家の中には商人になるものも出てくる。垂井家がそうだ。豪邸が多いのはそのためで、米など作っていない。ここが垂井家の本拠地だったので本家や分家の実家のようなものが固まっている。
 この家来衆、全国に散らばったが、ネットワークは生きており、連絡し合っていた。主家を復興させるために。
 しかし、それは二代三代目までで、その後はその望みも消えたようだ。現在でもこのネットワークは生きており、秘密結社とは行かないまでも、それに近いルートを持っているようだ。
 
   了

 



2016年3月15日

小説 川崎サイト