小説 川崎サイト

 

無為の人


 住宅地の真ん中に、ポツンと公園がある。近所の人は単に一本松と呼んでいる。昔は田圃の中にある小高い岡のようなもので、それもまたポツンとあった。その公園のベンチにポツンと座っている老人がいる。春先になると出てくる老人で、その滞在時間は一時間ほどだろうか。何もしないで座っている。さすがに辛抱はそこまでで、飽きるのだろう。一時間が限界のようだ。
 古墳は戦中、盛り土が削られ、平らになっていた。何のために平らにしたのかは今も分からない。すぐにでも土が欲しかったのだろうか。
 昔の絵地図や写真では田圃の中に大きな松の木がポツンと一本だけ立っている。その古墳の上にだ。それらも含めて消えてしまったのだが、戦後公園化するため、三分の一ほどの規模で、盛り土された。古墳のレプリカだ。そこは立ち入ってはいけない場所になっているが、子供は平気で柵を越え、滑り台よりも低い小山を駆け上ったりして遊んでいる。
 松の木は消えたが、桜などが植えられ、公園を取り囲んでいる。その端に滑り台などの遊具もあるが、メインは古墳だ。
 老人は桜の木の下のベンチにいる。ぽかぽか陽気の良い日だった。
 老人は何もしないで小一時間いるわけではない。すぐ上を見ると、鳥が来ている。古墳を覆っている芝生にも雀が来ている。
 雀は芝生を食べているのではなく、巣作りの材料を集めているのだろうか。藁や細い枝をくわえて飛び去っていく。そしてまたやって来る。桜を食べに来る鳥も休みなく突いている。歯がないので、クチバシを大きく開け、そのまま飲み込むようだ。
 公園に誰かが入ってくると、それらの鳥は全て飛び立つ。鳩は別だが。
 ところがこの老人、木のすぐ下にいても鳥は逃げない。動かないので人だと思われていないのかもしれない。雀もすぐ近くまで歩いて来る。鳩は老人の近くには来ない。餌をくれる人ではないためだろうか。
 鳥たち始終動いており、忙しげだ。有為なことをやり続けているのだ。人が来れば飛び立ち、去ればまたやって来る。その繰り返し。何処にも遊びがないように思える。やるべきことをやっている。
 老人は羨ましく感じる。自分は何もせず、座っているだけ。正に無為に過ごしているだけ。
 しかしこの老人、それが目的だった。早く無為に過ごしたかったのだ。それを今果たしているのだが、鳥たちの動きを見ていると、無駄なことでもいいから、何かをやっている方が良かったのではないかと、ふと思い直した。
 なぜなら、ここで座っているのは一時間が限度で、暇で暇で仕方がない。望んで無為を得たのだが、あまり良いものではなかったようだ。
 
   了




 


2016年3月21日

小説 川崎サイト