小説 川崎サイト



見知らぬ世界

川崎ゆきお



 見えるはずのものが見えないで、見えないはずのものが見える。
 長沢老人はその状態というか境地に達していた。
 日常生活に困るわけではないが、危ないシーンもある。信号が赤なのに渡りかけ、迫ってきた車を見て驚いたこともある。
 そして見えないものが見え始めた。誰かが自分の部屋に忍び込んでいる。そんなはずはないのだが、その可能性を考えるゆとりがない。
 誰かが入り込んでいるのなら息子夫婦が気付くはずだ。長沢老人はそれを忘れている。しかし、可能性がないわけではない。本当に空き巣が忍び込んでいるかもしれない。
 しかし、長沢老人は入り込んだ人間を見てしまっている。誰かがいる気配ではなく、具体的な像があるのだ。
 これは、見えるはずのないものが見え始めていることになる。
 見えなくなったもの増えた分、見えないものが増えた感じだ。
 嫁が、お爺さん、おかしなことを言い出したと心配になり、医者へ連れて行った。
 長沢老人は医者の前ではしっかりしていた。簡単な記憶力テストの絵にも答えられた。
「お爺ちゃん、知らない人が家に入り込んでるって言ってなかった?」
 嫁が医者の前で質す。
「あれは、錯覚だった」
 長沢老人はうまく逃げた。
 その後、長沢老人は夜中に徘徊した。本人は散歩だというが、時間帯がよくない。
 夜のほうが、見えないものがよく見えるようで、現実とは異なる風景が出現するようだ。
 長沢老人はそれを見るのが楽しいようで、今では日課になっている。
「お爺ちゃん、近所の手前もあるから夜は十時までにしてください」
「山岡さんは十二時前でも歩いておるぞ」
「あの人は健康のためです」
 もっと遅い時間に、死んだはずの酒屋の親父が歩いているのを見たが、それは話さない。また、二十年前に死んだ愛犬が一匹で散歩しているのも見ている。
 嫁の目があるので長沢老人は、それからは庭から外に出ることにした。
 ある夜、遠くまで来てしまい、今、何処にいるのかが分からなくなった。流石に長沢老人も焦った。すべての風景が初めてで、来たことのない町だった。
 一晩中歩き回り、やっと我が家に戻れた。
 あのまま迷い続ければ、見知らぬ町の見知らぬ我が家へ行ってしまうような気がしたようだ。
 
   了
 
 



          2007年3月8日
 

 

 

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