小説 川崎サイト

 

イベントの発生


 価値あるものでも目減りすることがある。相場があるのだろうか。値が下がり、もう価値あるものではなくなっても、まだそれを後生大事にしている。今では形式だけになり、ただの儀式になってしまった行事もある。
 例えば農地など一つもないところで、豊作を?る行事などがある。もう作物は作っていないのに。これは辞めよう辞めようとしても、それをしないとひどい年になりそうなので、続けることになる。日照りで水不足になっても、育てているものがないのだから影響はないが、水道が出にくくなったりする。イナゴや鼠も来ないというより、来ても餌がないので、最初から寄り付かない。イナゴはバッタのようなものだが、特に稲を好むので、稲子と書く。鼠は刈り入れた米粒が好きだ。当然害虫は他にもいる。そういうのは虫送りという行事で、他へ行ってもらう。この行事も田圃あっての話だ。
 行事が大事なのではなく、田圃が大事。この田圃で生計を立てている場合、これは死活問題。だから田圃に価値がある。
 田畑がなくなっても、その行事を未だにやっているのは、それをしないと落ち着かないため。しかし田圃のあった場所に家が建ち、そこへ越して来た人達にとり、あまり大事な行事だとは思えないし、村里は町になり、違う共同体になっている。
 さて、形式だけになった行事は個人にもある。もう意味を失ってしまった行為は当然やらなくなるが、形として残っているものは粗末にできない。今は価値はないが、少し前までは大事なことだった。
 しかし中身は変わっても基本的なものは同じかもしれない。田圃が他のものに変わっただけなのだ。これは生きていく上で大事なことで、ここが壊れると、生計が成り立たなくなる。
 個人の場合、価値あるものは分散し、個々ばらばらで、人によりお宝や聖域が違う。家族内でも違う。
 個人の神事、そんなものはないが、これは通信教育のようなもので、一人で学んでいる。だから、たまにはスクーリングで、大勢と一緒に学ぶ授業がある。それなりの共同体というより、共有するものがある。
 通信教育に限らず、多くのイベントが方々であるのは、これは一種のスクーリングで、そこで行事を果たしているのだろう。非常に小さなイベントは正に地蔵盆だ。
 このイベント、祭りのようなものだが、何を祭っているのかははっきりとしない。
 
   了




2016年4月23日

小説 川崎サイト