小説 川崎サイト

 

便所バエ


 男がドアを開けた瞬間、まずハエが事務所に入った。そのあと草むらのような頭をした男が入った。
 明知は何が起こったのか、よく分からない。ハエと草むら。この組み合わせは始めてだ。
「みみみ見ました」
「何をですか」
「広告を」
 男は求人広告を見て、この探偵事務所に来たらしい。
「清掃ですか」と、聞きながらも明知は清掃員の募集をした覚えはない。募集したのは探偵助手。
「ぼ」
「ボ?」
「ぼぼ」
「ボボ」
「ぼぼ、僕は探偵です」
「あ、そう。しかし」
 明知は最初からこの男を雇うつもりはない。探偵の助手は若い娘が望ましい。しかも知的で上品な姫探偵。
「ぼ、僕も仲間に入れて下さい」
 坊ちゃん育ちの明知は趣味で探偵事務所を始めた。これで食べていく気はない。下等な犯罪には興味はなく、また家庭問題や、興信所がやるような臭い仕事などする気はない。求めているはロマン。しかし、事務所を開いて一日目、まだ本の整理もしていない。これを一人でやるとなると大変だ。硝子扉式の大層な本箱を壁に置いたのだが、まだ並べていない。それらは飾り物の備品なのだが。
「雑用ではどうですか」
「え、雑用」
 そのとき、ハエが明知の前を飛んだ。
「何だこれは」
「便所バエです」
 事務所にはトイレがある。そこから飛んで来たのだろうか。普通のハエよりも大きな便所バエだ。
「雑用とはトイレ掃除とかを含むが、いいですか」
「あ、はい」
「まあ、清掃員ということじゃなく、書生ということで」
「書生」
「はい、書生のバイトで如何ですか。まずはトイレの掃除からお願いします。ハエがいるようですから」
「雇ってもらえるのですね」
「期限は分かりません、臨時です」
「ははははい。有り難うございます」
 飛んでいた便所バエが男の草むらのような頭に戻った。
 この男、通称便所バエ、知る人ぞ知る探偵だった。
 明知は履歴書も見ないで、即決したのだが、便所バエは一応渡した。書き直しが可能なように鉛筆書きだが。
 そんなもの、いらないのだが、明智は一応見た。年齢ぐらいは知りたいので。
 職歴を見ると沢村探偵事務所に勤めていたとある。そして名は花田寅次郎。
 沢村探偵。それは憧れの探偵だった。
 花田寅次郎の保証人が沢村宗十郎。間柄は伯父。
「花田さん」
「ははははいはい」花田は便所から声を出した。ついでなので気張っていたのだ。
「猟奇王を知っているのですね」
「は、はい」
「それだ」
「え」
「それなんだよ花田さん」
「何がですか」
「私が求めているロマン。それなんだよ。それ」
「あ、はい。それよりタワシか何かありませんか」
「便所掃除はいい。語り明かそうじゃないかね。花田さん」
「あ、はい」
 この世の中の裏側の暗闇に怪人猟奇王が潜んでいることは狭く知られており、それを長年追いかけている老探偵がおり、その甥が便所バエこと花田寅次郎。しかし探偵としては希代の愚鈍だった。
 
   了

 

 


2016年5月3日

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