小説 川崎サイト

 

三十一日


 ライブに呼ばれたのは久しぶりだった。矢吹は久しぶりに人前で歌った。古くさいフォークだ。
 梅雨時の六月三十一日、何人かでやるライブがあることは知っていた。馴染みのミュージシャンもいる。
 矢吹は呼ばれなかったので、当然チラシにも名は載っていない。当然だ。しかし出演者の一人が前日体調を崩し、急遽矢吹が呼ばれたのだ。
 そのため特別ゲスとして出た。しかし、本番では飛び込みゲストとして紹介された。もう長くライブなどしていないのだが、まだ矢吹のことを知っている客がいるのか、結構受けがよかった。主催しているのはライブハウスなのだが、実際にはそれを仕切っている男がいる。田宮と言い、この男が企画した。若手とベテランが程良いバランスで出ていた。五人だろうか。
 矢吹はもう現役を続ける気はないのだが、たまにそういう呼び出しがかかる。決まって田宮からなので、この線だけでミュージシャンをやっているようなもの。
 しかし、田宮がイベントに呼ばなかったのは、見切りを付けていたためだろう。必要なら最初から呼んでいる。それが少し気になるのか、田宮の態度は普段よりも丁寧だ。そしていつもより愛想がいい。
 イベントが終わり、お決まりの打ち上げになるのだが、矢吹は、もうこの世界で生きていく気はないので、そのまま一人で会場を出た。田宮だけに挨拶をして。
 ライブハウスはビルの三階にあり、矢吹は客と混ざるのが嫌なので、裏階段から降りた。
 そして、ビルを出たところで、女性が近付いて来た。
 二人は適当な店に入った。終電が気になる時間。だから打ち上げにも行かなかった。当然誰かと待ち合わせをしていたわけでもない。
 田宮はすぐに気付いたのだが、まさかの思いの方が大きく、興奮した。少し勢いは去っているが有名なアイドルだ。しかもマニアックな。しかし、そんな有名人が田宮が企画するような地方のイベントに来るわけがない。それに東京から一人で。
 矢吹が出ることは客は知らないはずだ。だから、このマニアックなアイドルは矢吹を見に来たのではない。
 何かわけが分からないが、矢吹は、このアイドルはよく知っており、ファンだ。しかし、同じ業界でも接することは先ずない別世界にいる。テレビなどにもよく出ている芸能人だ。
 しかし、そのアイドルも矢吹のファンだったようだ。わけの分からない偶然が重なっている。
 そしてしばらく話し込んでいると、田宮が入ってきた。もう打ち上げが終わり、この店で休憩してから帰るつもりなのか、一人だ。それとも抜け出したのだろうか。二次会に出ないで。
 アイドルと一緒にいるところを田宮に見られたことになるが、田宮はさっと目を逸らし、何も見なかったように、離れた席に座った。
 矢吹は非常にいい気分になった。田宮もこのアイドルのことはよく知っているはず。しかしイベント屋の田宮でも、かけ離れた世界だろう。
 終電が近い、いま出ないと間に合わないのだが、入り口付近に田宮がいる。別に挨拶をしてもかまわないし、何の支障もない。
 そのアイドルはテレビで見るよりも口数が少なく、大人しい人だった。
 しばらくすると田宮が先に店を出た。終電に間に合わすためだろう。
 しかし、この町で田宮が一番遅くまで居残る。終電に余裕があるためだ。矢吹は田宮よりも先に駅に出ないと間に合わない。しかし時計を見る気がしない。このままずっとこうしていたい。
 結局店を出たのは完全に終電がなくなってから。そして通りを二人で歩いていると、二次会から三次会へ向かう今日のメンバー達とぶつかった。朝までコースだろう。
 当然横にいる女性が有名なアイドルだと気付いた。
 矢吹は「やあ」と言っただけでやり過ごした。
 そして二人は闇の中に消えていった。
 しかし、このイベントは六月三十一日。六月は三十日まで。従ってそんな日は現実の世界では存在しない。
 
   了


2016年6月6日

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