小説 川崎サイト

 

消えた地蔵盆


 志村の生まれ故郷は村ではない。郊外にあるベッドタウンで、ニュータウンだ。そのため志村の親の代から棲み着いたことになる。安っぽい分譲住宅だが全区画は広く、一つの町になっている。田圃を少しずつ宅地にしたものではなく、ごっそりと宅地化した。しかし、一つ一つの分譲区画面積は小さい。
 志村は学生時代から都会に出ていたのだが、定年後は生まれた家、つまり実家に戻ってきた。
 高校時代まで、ここで暮らしていたので、思い出も多い。それで、暇なときは町内をうろついているのだが、世代交代で息子の代になり、その息子も老いて孫の時代になっているが、家が古いためか、建て替えられたり、また昔からいた人も家を売ったり、そのまま放置したりと、人も町も様変わりした。
 そんなとき、ふと思い出したのが地蔵盆だ。これを楽しみにしていた頃があり、おやつを貰いに行った。
 その町に地蔵盆の祠が五つほどあったように記憶している。辻辻にあったのだろう。それが消えている。
 今考えると、それは人の家の庭にあり、それが通りを向いている。昔の家は庭が広く、玄関先にも庭があり、裏側の南向きにも大きい目の庭がある。垣根はあったが、軽いものだった。
 地蔵が置かれていたのは表側の庭だが、ガレージになったり、建て替えたときブロック塀で囲ってしまい、地蔵の祠もそのとき消えたのだろう。
 この地蔵はニュータウンができたとき、最初からあった。不動産屋が置いたものだ。だから分譲地の中に地蔵付きの区画があったことになる。五つか六つ。
 志村はそれらの地蔵が何処へ行ったのか、探してみた。するとガレージの奥に犬小屋のようにして放置されていた。捨てられないためだろうか。また、その家を更地にしたとき、完全に消えたものもある。祠に値打ちはないが、中の石仏は大事だろう。何処かへ持って行ったのかもしれないが、そんなもの引き取る場所は少ないだろう。
 それらの地蔵さんは同じ形で同じ大きさ。ニュータウンができたとき、石屋が彫ったようだ。
 盆踊りができる広場、今は公園になり、遊具で狭苦しくなったが、昔は映画も上映されていた。巡回でよく来ていた。夏場に限られるが。
 盆踊り、そして地蔵盆。これらができるニューターンだったのだ。
 地蔵盆になると子供達は順番に回っていたのだ。当然親たちは、自分たちの地蔵があり、その前にゴザを敷き、何やら拝んでいたが、子供達はフリーだ。お菓子を貰いに町内めぐりをする日にすぎない。これは餓鬼供養だが、餓鬼などいないので、子供を餓鬼に見立て、おやつをやっていた。大事な行事だ。
 そして、三村が戻ってきた頃には、もう地蔵盆はなくなり、地蔵を持っている家も、新築や改築、増築のとき、処分したのだろうか。当然捨てないで、犬小屋のような感じで、隅っこに置かれていたりする。
 当時は周囲は田圃で、まだ村の面影が残っており、地蔵盆の盛んな地方だったためか、ニュータウンにも地蔵込みで売り出されたのだろう。
 地蔵付きの分譲住宅を買った人は、地蔵の管理が義務づけられていたようだ。そういう契約箇所があったのかどうかは謎だが、軒下に木製のゴミ箱を置くような感覚だったのかもしれない。
 地蔵盆の世話は実際には、その周辺に地蔵盆世話人会があり、そこでやっていたらしい。これを隣保とも呼んでいた。その第一世代はとうに地蔵に連れて行かれ、あっちへ行っている。
 
   了

 


2016年6月28日

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