小説 川崎サイト

 

夢の不思議


 夢を見ている自分がいる。だから夢を見ていたことが分かる。忘れることも多い。この夢を見ている最中、それは現実と変わらない。夢だから解像力が低いとか、映像が悪いとか、画面が暗くてよく見えないとかではなく、実際に見ているものと変わらない。映画は外枠が見える。横を見れば客席だ。暗いといっても、それなりに分かる。禁煙とか非常口の文字も読める。目をつぶれば、もう映画はやっていない。音が聞こえるので、それとなく分かるが。
 ところが映画を見ている夢はどうだろう。映画館で見ている夢だ。スクリーンから目をそらすとか、横の人を見るとかの意志は不自由かもしれない。自由にならないのは、それは夢も映画のように見せられているためだろう。
 そして映画館を出る。寄り道する。現実ではその後も現実が続く。夢ではどうか。映画館を出るところまでは同じとしても、その後、途切れたりするし、また全く違う展開になり、もう映画や映画館とは関係のない話に飛ばされたりする。
 現実の世界では映画館を出て、最後は家に戻るが、それから先も現実は続いている。しかし戻ってから、ある時間になると寝るだろう。だからここで一度中断がある。そしてまた夢を見るかもしれない。そのため、ずっと現実の世界に意識があるわけではない。毎晩中断する。
 眠ると夢を見る。うたた寝でも夢を見る。これは覚えているため夢を見たことが分かる。覚えていない夢があるとすれば、全く分からない世界となる。自分も知らないところで、夢を見ていたのだ。見たこと自体知らないに近い。だから夢など見なかったとなる。長い間、夜見る夢を見ていない人もいる。これは覚えていないだけかもしれない。そのためか、夜中急にかかってきた電話で起きたとき、夢を見ていたことが分かったりする。電話で起こされるまで夢を見ていたのだ。そして電話が鳴らなければ、その夢のことも忘れて、朝まで眠り、起きたとき、やはり夢など見なかったとなる。また電話が鳴る直前非常に長い夢を見ていたこともあるようだ。一秒以内で。これで時間というのはないに等しくなる。
 さて、夢の中では自分の意志は効かないが、多少は効く場合もある。それは夢だとばれているような夢で、そのつもりで、希望通りの方向へ夢を繋げようとする。しかし、それも含めて夢なので、夢を操作できるようでいて、できない。また、夢とうつつの間かもしれない。多少意志がある。浅い夢だ。
 また、良い夢を見て、そこで目覚め、もう一度寝たとき、その続きが見られるというラッキーなことがある。しかし良い夢のはずなのだが、少し様子が変わり、あまり良くなかったりする。同じ場所での夢で、登場人物も同じだ。
 夢は誰が見ているのだろう。これは自分だ。では自分はどこで夢を見たり、現実を見たりしているのだろう。これは目に限ったことではないが。
 この自分というのを意識とした場合、寝ているとき、意識はあるのだろうか。もし寝ているとき意識がないのなら、夢を見ているのは誰だろう。これで自分とか、意識とかというものも怪しくなる。
 
   了
 


2016年7月9日

小説 川崎サイト