小説 川崎サイト

 

自主的行為


 さて、何をやろうかと三村は考えた。本当にやるべきことはあるのだが、そちら方面ではない。これは嫌でもやるだろう。そうではなく、自主的にやる方面だ。この自主的とは好きなことをやればいいのだが、これはこれでネタが続かない。面白いテレビドラマをまとめて見ても、見終わると、もう続きはない。似たようなドラマや映画を探し、それも見てしまうと、もうネタがない。これは果たして自主的かどうかは分からないが、好きな時間に好きなことをするということで、テレビドラマを選ぶことが自主的なのだ。他の人に選んで貰ったのではなく、自主的に。
 しかし、そのテレビドラマ、宣伝でよく見ていたし、評判になっているのを知っていた。自分で探し出したわけではない。そしてあまり評判になっていないものは三村は見ない。失敗するかもしれないからだ。
 この場合、何等かの情報を得て、それが導引となっている。まあ、人が作ったものを見ているだけなので、本当は自主的も糞もないのだろう。それにそんなものを見ている場合ではなかったりするし、また、ただの娯楽の過ごし方になるため、見なくてもいいのだ。
 大概のことは人の真似をしておれば、何とかなる。しかも多くの人がやっているような。
 さて、自主的とは、もう少し生産的なことだと三村は考えているので困っている。建設的と言ってもいい。これは何を作るのだろうか。または何を建てるのだろうか。きっと自分のためになることに違いないとは思うものの、いつもそれで失敗している。あまり結果が良くなく、徒労に終わるため。
 また、そのためにどれだけお金を突っ込んだのか分からない。随分と無駄な出費をしたものだと後悔しているが、そのときは役立つことだから、自分のためになると思っていたのだろう。それに何等かの行為をすることが好きだ。何かに向かっていることが。
 これはエネルギーの使い方の一種だろう。ガス抜きとは少し違い、何かを構築するための前向きな行為だ。
 しかし、何度もそう言うトライ、アタックを繰り返し、残念な結果になると、これは詐欺ではないかと思い出す。自分自身で自分を欺いていたのではないかと。
 さて自主性だが、自主性のない人間ほど自主性に拘るのかもしれない。三村がそうだ。本当は自主的なことが苦手なのだ。考えるのが面倒だし、本当に自主的なことは、何も考えなくても、既にやり始めたりしている。
 三村は薄いノートを閉じた。このノートは小学生が使うようなノートで、何かを始めるとき、そのノートに書き出す。まあ、イベントのようなものだ。一つのイベントに限ってのノートで、一冊ずつ割り当ててある。そのタイプのノートが何十冊も本立てに挟まっている。これは失敗の記録のようなものだ。
 計画を立てる。それを三村はノートを立てるという。白紙のノートから始めるという意味だ。本立てに立てるのではない。それは終わったときだ。
 しかし本当に自主的なことは、こんなノートの前でぐつぐつ煮詰めなくても、既に行動しているものだ。そのことに最近気付いた。思い付いたとき、既にやっているのだ。それを自主的云々とかも考えないで。
 それで三村は今回はノートを閉じた。幸い何もまだ書いていないので、メモ帳として使えるだろう。落書き帳でもいい。
 しかし、さっとやってしまえることは、あまり有為なことではない場合が多いのが、気になるようだ。
 
   了
 



2016年7月17日

小説 川崎サイト