小説 川崎サイト

 

川上の村


 見るべきものがない、と言いながらも何かを見ている。目が開いている限り、何かが目に入るだろう。また目を閉じていても、何らかの映像がある。目を閉じた瞬間、まだ目の前のものを見ている。それは瞼だ。しかしこれはそれほど分厚くないのか、明るさが分かる。そしてそんなものこそ見るべきものではないので、すぐにやめるが、今度は模様のようなものが現れる。これは眼病ではなく、直前の光がまだ残っているのだろう。しかし、起きているときはそこまでで、やはり目の前のものを目玉で見ている。ところが寝る前とか、静かにしているとき、思い出の映像などが出てくる。つまり思い浮かべるということだ。映像を浮かべているのだ。このときは目玉で直には見ていないが。
 さて、見るべきものはないと思うのは、見慣れてしまったり、特に興味を引くようなものがないときだろうか。当然目で視覚的に見ているとは限らない。
 高島は散歩が好きだが、見るべきものがないような場所でも出かける。散歩なので、それほど遠い距離ではない。軽装で手ぶら。煙草やケータイ程度はポケットに入る。財布も。
 そして散歩のメインは目ではなく「歩」だ。「歩く」だ。歩くことが目的、移動することが目的のようなものなので、目の楽しみは二の次。
 ある日、何がきっかけなのか分からないが、子供の頃遊んだ小さな川を思い出した。幅は一メートルもないだろう。子供だったので飛び越えるのに勇気がいった。高島は生まれたときからこの町に住んでおり、昔は田んぼが多かった。だからその川だろう。メダカがいたし、カエルや虫がいた。ザリガニも蛇もいた。
 それを思い出したのは他の場所で、子供達が排水溝で遊んでいるのを見たためだろうか。あんなところに生き物などいるのだろうかと不思議だったが、小さな水槽に小さな虫が入っていた。それを思い出したのかもしれない。
 あの川はどうなったのか、などとはもう長い間思い出さない。用事がないためだろう。
 これはいいことを思いついたと、見るべきものを得た。すぐに出かけ、その川があった場所まで行く。もう田んぼはないので、住宅地の中を流れていたが、蓋の付いた暗渠にはなっていなかった。道にするほどのものではない。車が入れないほど細いためだ。その川は整備され、その横を細い道が続いている。車も通れないし、また人が通るにしてもすれ違えないほど狭い。川には柵がなく、しかもカーブとなっている。危ない場所だ。
 一般道路からその川沿いの小道に入り、しばらく歩くと記憶がよみがえってきた。確か農家が川沿いにあった。もう農家ではなくなっているが、今風な屋敷になっている。しかしそこに植わっていた木はまだ残っていた。この一本の柿の木だけで土地勘が戻った。場所が分かるのだ。この先を行けば、川は広くなる。つまり少し上流で二つに分かれているのだ。これは農水路のためだろう。だから、遡るほど幅が広くなる。そこにはフナやモロコがいた。当然今はいないだろうが。さらにその先はお隣の町になり、子供にとっては他国。見知らぬ異国になる。
 高島は分岐点まで行き、さらにその先へ向かった。
 しかし川沿いの道は狭いまま。これはあり得ない。分水点の向こう側は一般道路で、道は広い。それが細いままになっている。
 高島は勇気を出して、そのまま川沿いの道を遡った。
 そして道幅が細いまま町へ入ったようだが、そこは昔のままの農家があり、萬屋があり、その横で牛が休憩している。
 あり得ない。見るべきものがないので、高島は適当に映像化しただけのことだろう。
 
   了


2016年7月26日

小説 川崎サイト