小説 川崎サイト

 

神と妖怪


 神や仏になり損なって妖怪になったのではなく、妖怪が先にあり、それが神になったと妖怪博士は最近考えている。西洋では妖怪のことを妖精とか精霊と呼んでいるが、妖怪博士が勝手な想像をするように、人種により、想像に違いがある。これは環境に依存しているのだろう。
 日本の神様は何処にでもいる。山には山の神、海には海の神、木には木の神。万物に神が宿る。これが妖怪に近いのではないかと考えるのは当然だろう。数が多いと品質が落ちるわけではないが。
 インドの神様、これも数に限りがある。それほど多くはいない。仏もそうだ。名の知れた仏など限られている。
 ただ、もっと素朴な動植物に対しての信仰がある。動物、これは数が多い。これも妖怪に近くなる。
 要するにアニミズムだ。自然信仰というもので、これはそのものがあるのではなく、あくまでも信仰で、想像上のもの。自然界には精霊が宿っているというやつだ。これも数が多い。妖精の数より多いだろう。
 アニミズムは自然が対象だが、机や茶碗が変化して妖怪になると、これは物になり、物怪と言われる。自然界からは離れるが、万物の範囲内に入る。森羅万象となると、最大に拡がる。何でもよくなる。物だけではなく、物事まで含まれる。あらゆる現象が。
 西洋の妖精は見ることができない。また、妖精は人とは関わらない。ただ、何かの拍子で関わったり、姿が見えてしまったため、妖精がいることが分かる。滅多にないだろう。これは日本の修験者が似たような体験をするようだ。自然界の中にじっといると妖精や妖怪が見えるのではなく、感じるのだろう。それには当然形はない。
 神社の御神木に両手を当ててもたれかかっている人がいる。セミではない。何かを吸収しているのか、または抜いているのかは分からない。もし体内の悪い物を抜いているのだとすれば、御神木が枯れたりする。ガス抜き攻撃をモロに受けて。
 注入しているのだとすれば、これは何だろう。何が入ってくるのか。
 これは大木を見たときに感じるものと関係してくる。あまり細い木では、そのオーラーのようなものは感じないだろう。これは一種の畏怖感ではないかと思える。本当は怖いものなのだ。人間の寿命を遙かに超えても生きているのだから。また深い森に一晩座っていれば、どれだけ怖いか。
 この畏怖感、怖さ、恐れをうまく取り込めなかったものが妖怪変化のように、モロのまま存在していることになる。
 だから神になれなかったのが妖怪ではなく、うまく神として作れなかったので、出来損ないのような形になったのだろう。 神様は拝んでいる限りは神様のままだが、放置すると、妖怪に戻ったりする。だから下手に神は弄らない方がいい。
 妖怪博士がそう思うのは、神社などへ行ったときだ。もっと色々な神様がいたはずなのだが、祭られなかった神、つまり祭ろわれなかった神が多くいるはずだと。祭られている神などほんの僅かで、そして本当の神様は、祭る必要はないのかもしれない。数が多すぎるので、実際には不可能なのだが。
 尾が二つに分かれた猫又などはどう考えても存在しない。妖怪画に出てくる妖怪など、誰も見た人はいない。この世はそういう風にはできていないのだが、そのようにできているというのも、一種の幻覚かもしれない。あくまでも人間の五感では感知できないのだろう。
 だから、見える人には猫又が見えるわけではない。尾が二つに分かれているというのは人の想像内でのことで、動物の持つ何か得体の知れないものを形にしただけのことだろう。
 と、夏の暑い盛り、妖怪博士は汗を流しながら、そういうことを考えていたのだが、この話の聞き役の担当編集者が夏風邪でダウンしたのか、最近来ないようだ。
 
   了

 


2016年7月28日

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