小説 川崎サイト

 

諸行無常


 日常生活と諸行無常は馬が合わない。そりが合わない。日常というのはずっと続くような状態だ。諸行無常の無常とは、常がないこと。常の状態、いつもの状態はないという意味だ。祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きありで、この言葉は有名だ。
 時は流れ、時代も流れる。そのため風景も違ってくる。ただ、昨日と今日とではあまり変わらない。十年ほど同じような風景もある。また、変化していても僅かな部分なので、気付かなかったりする。
 故郷の山は変わらないが、高圧線や電波塔が立っていたりする。当然そんな山並みも、近くに高い建物ができると、もういつものように眺められなくなる。
 諸行無常の世の中だからこそ、変わらぬものが貴重になる。しかし、ものによりけりだ。
 世の中が変わるのは人が変わるため。同じ人が千年も二千年も住み暮らしているわけではない。町の人もところてん式に入れ替わる。また、いきなり町ができれば、そこからがスタートだ。
 普遍的なものも変わったりするので、やはり諸行無常なのだろう。鐘が鳴り響いている。
 動植物も進化するが、虫などが生きている間に、その虫自身が、その世代中に大きな変化を見せることはないだろう。それに自然界の生物は、世の中の移り変わりなど、あまり興味がないのか、本能にはないのか、食べて生き抜き、種を残すことで始終している。しかし、多少の遊びはある。ただ、腕組みしながら、昔はああだった、こうだったとは思わないだろう。腕が組めなかったりするし、腕か足かよく分からない。
 ゴキブリなどは昔の殺虫剤では効かないことがある。これも生きるために必死で、強くなったのだろう。このペースは結構早いかもしれない。何世代かかるのか分からないが。結局それは人と関わるためだろう。
 だから、人の手が付いていないところは、結構昔のままが残っていたりする。
 万物は常に変化する。だから、変化する方が実は日常的なのかもしれない。
 
   了

 


2016年7月30日

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