小説 川崎サイト

 

隣の客


「隣の客はよく柿食う客だ」
 早口言葉だろうか。それほど難しくはない。しかし、その状況は難しい。非常に難解で、難しい設定ではないが、隣の客がよく柿を食べているという状態を何人の人が体験しただろうか。日常会話にも出てこないし、また物語にもなかったりする。こういうシーンを本当に見た人はいないのではないか。柿をよく食べる人はいる。庭に柿の木があり、それが渋柿でなければ、食べ放題なので、かなり食べるかもしれない。よく柿を食べる人はいるにはいる。それが隣の人だったとしても問題はない。見たのだろう。または聞いたのだろう。
 しかし、問題は、隣の客だ。これはどんなシーンだろう。お隣の家を訪問した客なのか、旅館などの隣の部屋の人なので、客なのか。
 ここで客が出てくるのは柿と引っかけるためで、語呂が先行している。事実よりも。それで難解になる。設定としては非常に難しく、また第三者からの視点なので、どうしてそれを知ったかだ。
 旅館の人の視点だと、隣という言い方がおかしい。隣の宿ならいいが。客同士ならいける。乗り合い馬車に乗り合わせた隣の客などもある。
 これは事実を見て、あるいは何等かの想像で、生まれたシーンではなく、柿なので、客なのだ。それが先ず来る。だから誰も体験したことのないシーンになっている。しかし、有り得ない話ではない。乗り合い馬車やフェリーの座敷の自由席で乗り合わせた客が柿を何個も食べていたりすると、成立する。これも隣の客だ。横の客だが。
 当然映画館や芝居小屋で、隣の客が柿を何個も食べていると、隣の客はよく柿食う客だと思う。一つではなく二つ以上だと。だが、映画館で柿を食べている人は非常に珍しい。ないとはいわないが、滅多にない。乗り物で蜜柑を食べている人はいる。しかし、柿となると柿の葉寿司とか、干し柿ならありそうだ。しかしよく食べるとなると、難しくなる。
 最初に客があり、それに近くて言い違えそうなものを探していると柿が来た。
 言葉というより二つの単語が先にありきだ。そしてこれは言葉遊び。早口言葉用の言葉だが、シーンもの。つまり何等かの行為に対して感想だ。柿を食べるという動きがある。
 この早口言葉、いつの時代にできたのは知らないが、柿を食べると言えば正岡子規だろう。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、あまりにも有名だ。だから、よく柿食う客とは子規のことではないだろうか。奈良で柿ばかり囓っているような印象がある。
 さて、秋が深まり、少し心細い雰囲気のとき、隣の人は何をしているのだろうというのもある。実は柿を食っていた。では雰囲気が出ない。具体的になりすぎるためだ。何をしているのかは分からなくてもいい。
 いつか、隣の客が柿を食べているシーンを見たいものだが、そこまでは難しくない。次の「よく柿食う」が条件的に難しかったりする。どの程度の量なのか。これは誰が見ても食べ過ぎだろうというレベルだろう。
 関ヶ原の敗者、石田三成が刑場に行くとき、柿をすすめられた話があるが、三成は断っている。柿は腹を冷やすので、身体に悪いと。これは最後まで、打倒家康を諦めていないので、後々のため身体を大事にしたということだろう。この場合の柿と、隣の客の客とは大違いだが、呑気でいい。
 短気で知られ、鳴かぬなら殺してしまえホトトギスの信長も、柿の実が自然に落ちるように武田の滅びを待った。柿というのは独自の趣があるようだ。桃でもだめで、梨でもだめ、林檎でもだめ。やはり柿の持つ渋味のようなものがいいのだろう。
 
   了
 
 

 


2016年8月17日

小説 川崎サイト