小説 川崎サイト

 

文殊衆と呼ばれた村人


 諸国を隈無く歩き回る行商の村人と、村内を隈無く歩き回っている村人と、殆ど家に籠もっている村人の三人がおり、いずれも竹馬の友で、仲がいい。
 世の中をよく知ってるのは行商だが、実用的なことでは村の散歩人。一番の知者は籠もっている学者。この中で一番現実性の高いことを言うのは散歩者。行商は世間を知っているが、荒っぽい。一歩踏み込んでいないためだろう。その点、村の散歩者は他人の家まで上がり込み、常に観察し続けているため、実情に詳しい。ただ、一つの小さな村内だけの話なので、限界はある。
 閉じこもりの学者肌の村人は、お寺程度には行き、そこで本を借りて読んでいる。そのため世慣れた行商以上のことを知っているのだが、話がかなり古い。本が古いためだ。お経になると、もう哲学だ。
 村の散歩者が回れる場所や、家々や人々は限られているように、行商も限られており、学者も、読む本が限られている。
 しかし、三人はそれぞれの視点から世の中を把握している。三人寄れば文殊の知恵と言われるが、いい思い付きが出ないとき、三人集まれば、いい考えが出ることもある程度だ。意外とこの三人、知恵を出し合ったり、互いを補完し合ったりしない。流儀が違うためかもしれないし、また知恵程度では解決しないのが世の中だ。これは村の散歩人も、そんな実情を見てきたし、行商人なども、もっとスケールの大きな実情を見ている。学者風な村人も、知識や知恵を戒める本も読んでいる。
 行商に出た村人が年に何度か村に帰ってくる。その度に三人の竹馬の友は集まるが、そこでミーティングなどはしない。
 未だに仲がいいのは、タイプが違うためだろう。学者は論争好きだが、他の二人は相手にしない。
 三人集まって、何をするのかというと、リーダー格の行商の話を聞く会のようなものだ。それに対し、散歩人と学者はコメントを入れる。また、この二人の反応を聞くのが行商は好きなようだ。そのため、大嘘を言うこともある。
 聞いている二人は、何かを確かめるように聞き入っている。
 行商が話を面白くするため、言いすぎると、散歩人がすぐに見破る。学者は本に書いていることや、自分で想像している世界と、世間との差をこのとき確かめる。
 この三人長じて村の重鎮になるわけではなく、行商は年老いても未だに諸国を回っているし、学者は寺にあった本を全部読んでしまったため、物思いの日々を送っている。村の散歩人は相変わらず村内をめぐり、村の世話役のようなことをしているが、顔が広いだけで、大した力はない。農地が狭いこともある。
 三人はそれぞれ長生きしたようだが、名を上げ、何か事を起こすようなこともなかった。
 
   了

 


2016年9月4日

小説 川崎サイト