小説 川崎サイト

 

一念岩をも徹す


 一念岩をも徹すと言うが、言いすぎだろうが、その一念とは何だろう。一つの念。一つのことに集中すれば、エネルギーも集中し、貫徹しやすいということだろう。ただし、念だけでは無理で、そう強く念じながら、励むのだろう。
 ただ、これは意識的にならないとできない。念じるというのは意識的で、そう思わないと成立しない。しかし、無意識というのがあるとすれば、そちらの領域の方が広い。見たわけではないし、意識よりも広い地下室があるとしても、それは意識しないと見えない。いや、意識しても見えないだろう。無意識なので。
 無意識は何処にあるのか。その前に意識は何処にあるのかも大事だが、これは頭の中だろう。足の裏ではない。身体のあちらこちら、内蔵まで検討して、頭が一番それららしい。つまり脳みそだ。
 では無意識も脳みそにあるのかというと、これは分からない。体中に分散しているのかもしれないし、身体全部に入っているのかもしれないし、外部と繋がっているかもしれない。この場合の無意識とは、意識に上がらないのだから意識しにくいものだろう。たとえば動物的な何かとか、生物としての何かとか。当然物理的な何かとかも。
 そのため、念じるときの意識はほんの表面的な箇所だとすれば、ほんの偵察兵が前線で動いている程度で、本軍の動きではない。
 また、よく言われる無意識は、意識的には思っていなかったこと、思ってもみなかったこととして出てきたりする。無意識がどうの潜在意識がどうのも、意識的に探り出したものだが、どうやらそういうのが下で動いているらしい。ただそれは意識してやっと出てくる。しなければないに等しい。ただ、意識しなくても、何となくの動きとして出る場合がある。人を本当に動かしている化け物のようなものだろうか。これは自然に近いのかもしれない。
「無意識の中にオカルトを見ました」
「しかし、無意識は意識できないのでしょ」
「そうなんですが、こちらの方が深い。宇宙の原理がそこに入っています」
「まあ、科学の最先端はオカルト的だと言いますからねえ」
「じゃ、最初からオカルトをやっていた方が」
「オカルトというのは神秘主義のようなものでしょ。その神秘主義も大昔はそんな言い方をしなかった。摩訶不思議程度。世の中には人知を越えたことがある程度」
「興味深いです」
「それで無意識の研究ですか」
「そうです」
「海の魚を一匹釣り上げて、これが無意識だと言っているようなものです。魚はもっといる」
「はあ、しかし、これは生き方にも関わりますから」
「ほほう」
「一念岩をも徹すです」
「星一徹ですね」
「そうです」
「しかし疲れそうなので、やめておきなさい」
「なぜですか」
「そんな一徹を意識した状態ではバランスが崩れるような気がしますよ。意識しすぎなので」
「承知しました」
 
   了



2016年9月27日

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