小説 川崎サイト

 

古きを訪ねて


 古いものに馴染みを感じるのは、自分が古くなったためだろう。古きに新しきを見出すのはまだ若い。古きを求めているのではなく、新しきを求めているため。
 もうあまり進歩もしないようなもの、終わってしまったまま未だに残っているものに親しみを覚え出すと、それはもう未来を見据えていないことになる。古いものを活かして何とかしようとかではない。
 老い先短い三田老人は古寺巡礼などをしている。これは十年前も百年前もそれほど変化はない。古寺が外装まで鉄筋コンクリートになれば、観光客は来ないだろう。求めているのは様変わりの少ないもの。それなら原生林にでも入れば見た目の変化は四季によっては違うが、千年も二千年も前と似たようなものだろう。よく見ると、消えてしまった種目があるかもしれないし、下草や灌木も違っていたりするが、そうではなく人工物が見たいのだ。これは道具でもいいし、機械でもいい。
 それが高じると骨董品になるが、手に取って見たり感じたりするものではなく、その中に入りたい。だから、建物や場所が好ましい。
 三田老人はそれで古寺巡礼、これは神社でも名所でもいい。それを続けている。若い頃にもそういう趣味があったが、それは新鮮だったため。自分の日常とは全く違う別世界の空間がそこにあった。だから違うものを体験するという感じで、決してそれに馴染んだり同調したりはしなかった。
 年を取ると仏像になるわけではないが、その差が少しだけ縮まっている。最後は仏像にはならないが、その気配に近いものがある。気配とは雰囲気的なものだろう。
 三田老人はそういうものに触れて、何かを見出したり、生きる知恵を得たり、役立てようとするわけではない。もうそんな用事は殆ど残っていないし、人格を磨いても、もう遅い。当然知識欲もない。得ても使う機会がなかったりする。
 同じように寺社参り、名所旧跡参りをしている友人がいるが、彼は運動のためにやっているらしい。ただの行楽だが、まだウロウロできるだけでも満足なようだ。
 当然そういう年寄りだけではなく、若い人も訪れる。これは異空間に一度入ることで、何かが浄化されるように感じるためだろうか。映画の世界ではなく、主人公は自分だ。これは実体験でないと駄目なようだ。ただ、映画や音楽と違い、自分が主人公なので、大したドラマ性はなく、ただ単に歩いたり、眺めたりしているだけ。
 まあ、昔からずっと続いている見世物興行のようなものかもしれない。
 
   了

 

 


2016年10月27日

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