小説 川崎サイト

 

冷蔵庫の音


「昔の思い出なのですが、まあ、思い出とは全て過去のこと。しかし、昔となりますと、少し古い。十年一昔と申しますが、それよりも古い思い出です」
「はい」
「その場合でも私の思い出ではないのです」
「どういうことですか」
「実体験の話ではないということです」
「昔、見た夢とか」
「それも実体験かどうかは曖昧です。実際に起こったことじゃありませんが、私が体験しないと、その夢も分からないまま。まあ、覚えていたらの話ですがね」
「夢の話ですね。昔見た」
「夢ではなく、漫画です」
「漫画」
「そうです。妙な漫画でしてねえ。別にどうということのない話で、普通の人の普通の日常なのですが、絵が少し個性があり、同じ現実なのに、違った世界に見えるのですよ」
「別世界の話ですか」
「いえ、勤め人の話で、休日なので、家で一人でいる話です」
「それが何か」
「画かれている絵は、普通の庶民的な家で、畳の間があり、キッチンがあり、冷蔵庫があるような」
「はい」
「その中年の勤め人は朝寝をしています。平日ですが、休みのようです。それで寝坊を目一杯してるのですが、そんなに眠れるわけがありません。寝過ぎたのか、目を覚ましますが、まだ寝床の中。すると、妙な音が聞こえるのです。昼前でしょうか。外からの騒音も結構入ってきますが、それかな、と最初思ったようです」
「幻聴もの」
「違います。冷蔵庫の音だったのです。今までそんな音がすることなど知らなかったようでした」
「はい」
「それだけです」
「え」
「これは漫画ですが、不思議な印象が残り、何度もそれを読み返しましたよ。丁度私も中年にさしかかる頃でした。しかし、中年の入り口の思い出として、この漫画の方が印象深く残っているのです」
「その漫画はそこで終わったのですか。そんなはずはないと思いますが」
「そのあとも、話は続きますが、この冷蔵庫の音だけで十分です。その中年の勤め人、寝間着のまま、しばらく蒲団の上で座っているのです。そして何かを考えているようです」
「変な漫画ですねえ。日常を描いた心理ドラマですか」
「まあ、そんなところですが、別に何も起こっていません。しかし男は眉間に皺を寄せ、怖い顔で座っているのです」
「はい」
「そして何かを思い出したのか、冷蔵庫に向かい、そして開けます」
「そこに何か」
「奥さんが出掛ける前に、冷蔵庫の中におかずがあるから、それを温めて食べるようにと、言って出たようなのです。それを思い出したのでしょう」
「はあ」
「そして、ラップで包んだものをテーブルに置きます」
「どんなおかずですか」
「絵なので、よく分かりませんが、カボチャと蛸を煮たようなものでした」
「はい」
「男は、じっとそれを見ているだけで、食べようともしません。茶碗も出していません。だから食べる気がないのでしょう」
「はあ」
「そして、そのまま寝床に戻り、また座り込みます」
「何ですか、その漫画」
「このあとも、ずっとこんな感じなので、お話しとしては何もありません」
「はあ」
「そして最後にひと言だけ、セリフを吐きます」
「はい」
「それは声を出しての独り言です」
「どんな」
「私をなめるんじゃないなめるんじゃないと何度も呟きます」
「誰に対してですか」
「分かりません」
「はあ」
「話はそれで終わりです。まあ、こんな話なので、最後まで話しても仕方がなかったのですがね」
「それが昔の思い出として、ずっと残っているのですか」
「そうです。私が体験したわけではありません。ただ読書体験のようなものでも思い出として残るようです。しかも、その年代のことはあまり覚えていませんが、その頃読んだ、この漫画だけは印象深く覚えているのですよ」
「現実ではなく、架空の方が印象深かったわけですね」
「そういうことです」
 
   了

 

 


2016年10月28日

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