小説 川崎サイト

 


 型というのがあり、これは便利。鋳型などがそうだ。同じ形のものが作れる。いちいち型どりしてからよりも早い。同じようなものを多く作るときは今も使われているだろう。それがコンピューターになっても、その中に型がある。
 型通りの動きや、挨拶なども便利だ。礼儀正しい人は礼法通りの、型にはまった仕草になる。
 流儀が先なのか、型が先なのかは分かりにくい。繰り返し繰り返しやっているうちに型ができ、それが一流派になるのかもしれない。
 自分の流儀というのがある。これは世間一般では通用しない。その流儀を流行らせれば別だが。この流儀も、型ができる。自分の型だ。相撲取りなどが自分の型を見付けると、相撲に安定感が生まれるようだ。その型は昔からあるのだろう。
 自己流の型も、何処かの型の真似が多いのだが、しっかりと真似きっていなかったり、別の流派のものが混ざっていたりする。
 それとは別に、何となくやっていくうちにできた道筋のような、自分のやり方ができる場合もある。結局このやり方が自分に合っているという感じだ。そこへ至るまで、色々とやってきたはずなので、最初からそんな型があったわけではない。
 また、型破りも型で、型を破り続けるのも型。所謂スタイルだ。しかし、もう破るような型がなくなると、型破りという型もなくなるが。
 自分は変えられないが、型は変えてもいい。別の流儀でやってもいい。しっくりいかなければ、また別の流儀で。型は色々あるので、乗り換えることができる。
 しかし、型と型、流儀や流派がぶつかることがある。同じ流派、流儀の人ばかりではないが、流派というのは、その型を使っている人が複数いる。殆どの人が、ある儀式のときには同じ流儀でやることもある。
 人はできれば型通りにやるほうが便利だ。あまり考えなくてもいい。しかし、それが自分だけに通用するオリジナルすぎる型では、世間では通用しないことがある。流派を生んでいないためだ。所謂普及しておらず、汎用性が難しくなる。だから通用しない。
 自分のやり方、自分の流儀。それはユニークでいいのだが、個性的というのはある意味では悪口なのだ。
 そして自分の流儀や型といっても、所詮は借り物で、コピーであることはバレていたりする。
 しかし、普及している型や流儀が必ずしも効率がいいとは限らない。だから、年々世相に合わせて流儀も更新され、場合によっては消えたりする。
 伝統も守るだけでは消えてしまう。またその伝統の有用性が必要ではなくなった場合、ただの型だけが残ったりする。
 世の中には様々な型がある。そしてその型に対しても、受け取り方が年々変わっていく。さらに新しい型が生まれたりするが、よく見ると、大昔にあったものを引っ張り出してきているだけだったりする。
 
   了

 





2016年11月12日

小説 川崎サイト