小説 川崎サイト



毛抜き地蔵

川崎ゆきお



 繁華街の裏にお地蔵さんがポツリとある。
 この辺り、昔は新地と呼ばれた悪所だが、江戸時代まで溯ると村の外れだ。
 その地蔵が毛抜き地蔵と呼ばれるようになったのは最近だ。
 時代がこれだけ変わっても、不思議と村の地蔵さんが残っているのは都心としては珍しい。
 繁華街の表通りのすぐ裏側にあるのだが、道が細いためか店舗もない。裏道というより余地に近い。
 この繁華街で店を持つ人や、働いている人は地方出身者が殆どだ。悪く言えば田舎者の集まりなのだが、その人々が街を動かしている。
 その地蔵がもう消えてしまった村の面影を残しているのか、大事に保存されている。
 既に目鼻も消えるほど風化しているが、それだけに歴史の艶が出ており、有り難さがあるのだろう。
 とげ抜き地蔵は聞いたことはあるが、毛抜き地蔵は知られていない。ここ三十年ほど前から言い出された地蔵のためだ。
 とげは抜いたほうがいいが、毛は抜けないほうがよい。
 毛が抜ける願など、誰もかけないだろう。
 だが禿げ供養の地蔵ではない。頭が禿げてしまうほど長生き出来たことを祝う人も稀だろう。
 この地蔵に商売繁盛とか開運とかを願っても、ことごとく聞き取ってもらえないようだ。
 願をかけ、成就した人は一人もいないどころか、大失敗する。
 これは何かの祟りではないかと思えるほどで、その畏怖の念から大事にされているようだ。
 願うと祟る地蔵なのだ。
 それを言い出したのは地方出の商売人で、相場に手を出し、ケツの穴の毛まで抜かれるほどの損失を出した。
 それで毛抜き地蔵と名付けられたようだ。
 しかし、ケツの穴の毛まで抜かれるかもしれないと思いながらも、甘い話に乗る人はあとをたたない。
 そうして失敗した人が、たまにお参りにくる。あのときの失敗を思い出させてくれる記念碑のようなものだ。
 もう願はかけないで、手を合わせ、じっと反省する。
 借金の形の中にケツの穴の毛が含まれているとは思えないが、剃るのではなく、抜くというのがいかにも痛そうだ。
 
   了
 
 
 

 

          2007年4月2日
 

 

 

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