小説 川崎サイト

 

湯豆腐を食べる日


 田村はその夜、湯豆腐を食べた。田村の中では夜豆腐。朝の味噌汁などに入れた場合は、朝豆腐と呼んでいる。いずれも辞書にはないので、普及していない言葉だ。昼豆腐はやっこ。生のまま食べる。冷や奴のことだ。これは夏に限ったことではない。
 その夜、夜豆腐である湯豆腐を作って食べたのだが、ここへ至るまでの精神状態がある。豆腐だけでは頼りないので、ネギを入れたり白菜を入れたりする。しかし、決して油が浮くようなものは入れない。具を入れすぎると水炊きになるし、湯が濁る。
 その精神状態だが、湯豆腐を作って食べる状態は穏やかな状態を意味していた。安いし、あまり御馳走でもない。ただ観光地で食べる湯豆腐は、豆腐しか入っていないのに、ものすごい値段がする。ただ、大衆酒場などでは安い。
 田村はその湯豆腐を食べているとき、やっとこれが食べられる精神状態になったのかと、改めて思った。その日は特に食べたいものはなく、また、特に何も用意していなかったし、食べに行く気も起こらなかった。慌ただしい日々を送っているためか、湯豆腐を作る暇はあっても、もう少し美味しいもの、贅沢なもの、変わったもの、脂っこいものが欲しかったのだ。
 湯豆腐が温まるまでの時間は決まっていない。生でも食べられるし、おでんのように煮込んでもいい。しかし、湯豆腐の美味しさが決まる温め時間がある。それは物の本によると、豆腐がぴくっと動いた瞬間らしい。今まではそんなかったるいことをやっている余裕がなかったのだ。
 特に寒くなり出したこの季節。湯豆腐でも食べて暖まろうということが多いのだが、それは湯豆腐でなくてもかまわない。汁物を飲んだ方が遙かに身体は熱くなる。しかし、アツアツの湯豆腐を飲み込むと、もの凄く熱い。口ではなく、胃の中が。
 湯豆腐を作って食べる心境。これが大事なことを田村は知っていた。これは湯豆腐のように温和な状態なのだ。つまり平穏な証拠で、そういうときに湯豆腐でも食べるか、となる。
 しかし、田村は違和感を感じた。それは木綿ではなく、絹こし豆腐を入れてしまったため。これでも悪くはないのだが、箸で挟むとき、柔らかすぎて分解してしまう。挟むと二つに分かれ、それをさらに挟むと、また二つに割れた。それは塗り箸で挟むためで、こういうときは割り箸、最悪は匙ですくえばいいのだ。そんなことをすっかり忘れてしまうほど、忙しい日々を送っていたのだろう。
 
   了

 


2016年11月29日

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