小説 川崎サイト

 

心が揺らぐ


 心が揺らぐのは何かがあってからだろう。何もないのに、心は揺らがない。その何かとは具体的なもの。腹が減ったとかは気持ちの問題ではない。胃の中が空っぽになったのか、またはご飯を食べる時間になったため。これは時間の経過という具体性がある。また、食べたばかりなのに、またお腹が減るというのもあるが、食べた気がしなかったのかもしれない。その気は胃や口が満足していないと神経が伝えているのだろうか。そのからくりは分からないが、神経の問題としても、神経は具体的なものだ。
 何もないのに不安な気持ちになることもある。しかし何もなくはないはずで、そういう状況が具体的にある。すぐ目の前に不安なものがあるのではなく、先への不安とかだ。これは今が満ち足りているときほど起こったりする。心配の種を探すようなもの。
 その日暮らしで、明日のことさえ知れぬ我が身なら、ものすごく遠い先など射程外。だからそこは心配ではなかったりする。まず、目先だろう。
 そのため、金持ちより貧乏人の方が逆に心配事が少ないのかもしれないが、それはスケールの違いで、やはり心配の量は同じ。質やジャンルがかなり違うかもしれないが。
 たとえば株など持っていない人は、暴落しても関係がない。それよりも天候不順で野菜が高いことの方が気になる。百円か数十円の違いだが、ここが大事になる。
 どちらにしても心が先にあるのではなく、具体的なものが先にある。幽霊でもない限り、身体がなければ心もない。
 精神的な問題は、それが病気ではない限り、具体的なものが変わると、気も変わる。しかし、なかなか具体的な現実は変わらないため、気の持ち方を変えることで対処するのだろう。
 そういうことは教えられなくても普通にやっていることで、それに任せておけばいい。気持ちは天気と同じで、本来変わるもの。
 気持ちや、心のようなものがなければ喜怒哀楽も生まれない。嫌なことも感じないが、嬉しいことも感じなくなる。
 また、心ここにあらずで、色々と具体的な出来事が起こっているのに、頓着しない人もいる。集中して何かをやっているときがそうだろう。
 精神的なものは最新科学で解き明かさなくても、これは人類は長く付き合ってきた問題なので、ほぼ思い当たる精神状態をライブラリー化しているだろう。
 
   了



2016年12月9日

小説 川崎サイト