小説 川崎サイト

 

至福のとき


 前衛芸術家では食えないが、榊原は一パーセント以下の確立に恵まれたようで、何となく売れてしまった。そんなとき、同じ芸大友達の竹中を訪れる。これは自慢したいがため、差を見せつけたいがためではない。
 竹中は前衛ではなく、日本画だ。当然そんなものでは食べていけないが、前衛よりはまし。それで、普段は働いているが、フリーターのようなもので、バイトを転々としている。
 そのため学生時代の下宿屋は取り壊されたが、それに近い安アパートの一室で暮らしている。旅行が好きで、バイト代はこれで飛んでしまうが、風景を見るのが好きなのだ。これは水彩画にも役立つので、竹中にとり、それは仕事のうち。ただ、一円にもならない。
 榊原が訪ねたとき、竹中は休みなのか、部屋にいた。そして砥石でペン先を磨いている。水彩画だが、ペン画に色をつける軽い彩色のイラスト風なものを描くためだ。これは日本画では食っていけないので、イラストレーターとして何とかしたいがため。
「どうしてペン先を磨いているんだい」
「ペン先は細いからねえ、太くするためさ」
「そうなの」
「うまく磨かないとトゲトゲになるから、角度を変えてまろやかに磨くんだ」
「ほう」
 下宿時代は四畳半だったが、それが六畳になり、板の間が一畳ほどあり、そこに流し台が付いている。野菜類が段ボールに入っているが、量が多いことから貰ってきたのだろうか。一度に大根を三本も買う人はいない。沢庵でも漬けるのなら別だが。
 鍋などは汚れて真っ黒。さすがにテレビはブラウン管式ではないが、十インチほどの小さな液晶テレビ。万年床の横には錆びたような扇風機と背の低い衝立式の電気ストーブが同居している。押し入れがもう満杯なのだ。液晶テレビだけは買ったようだが、他は拾ってきたものに違いない。貧乏画学生の頃と四十を超えた今と、それほど変わっていない暮らしぶり。実はそれを見るために榊原は来ている。
 榊原は有り余るほどの財をなしたわけではないが、よほど高いものではない限り、何でも買える。急に売れ出したとき、今まで欲しかったものを全部買っている。しかも高い目のやつを。
 しかし、不思議と満足はない。何かもう一枚足りないのだ。
 その点、竹中は事足りればいいという感じで、使えるものなら何でも使っている。買えない値段のものは最初から無理なので、無視し、この世にないものとして計算している。
「今日は何?」
「近くまで来たのでね」
「あ、そう、で、絵は描いてる」
「ああ」
 その絵はもう画学生時代の前衛画ではなく、またイラスト風でもない。実はもう絵の仕事ではなく、別の仕事をしている。
「ペンはいいんだけどねえ。インクが油性でないと、色を塗ると滲むんだ。それで油性か耐水性のあるサインペンに変えようと思うんだけど、やはり線はペンではなく、絵の具じゃなく、墨汁で筆で引いた方がいいかもしれない。最近の安い墨汁、あれは固まるんだ。だから乾燥すると、耐水性になる。しかし、ペンもいい。同じ線でも勢いが違う」
「あ、そう」
 話しながらペン先を磨いていたためか、インクをつけて引くと太くなりすぎたようだ。
「いっそのこと、水彩絵の具とペンの組み合わせでやるかなあ」
「あ、そうなの」
 帰り際、榊原はレジ袋を竹中に渡す。
「あ、差し入れかい」
 中にポテトチップスが入っている。これをかじりながら絵を描いているときが、至福のときらしい。
 
   了


2016年12月21日

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