小説 川崎サイト

 

草の宿


「小さな温泉宿に泊まったという小説なのですがね。かなり昔の作品ですが、時代劇じゃありません。今とそれほど環境が変わっていないような。そのため、暮らしぶりも今とほぼ同じ。まあ、多少は今はもうそんなことはないと思えることもありますがね。長くはありませんが一応長編小説で、文庫本になっているので、いつでも手に入りますよ。結構薄いので安いですし」
「はい」
「内容は先ほど言いましたように、温泉宿に泊まる話です。その道中も描かれていますが、クライマックスは謎の女性」
「謎の」
「主人公が聞いただけの噂話でしょうが、訳ありの女性で、実家の温泉宿に戻っている。まあ、出戻り娘でしょ。その女性と主人公が湯船で遭遇します。この時代はまだ混浴だったのでしょう。素っ裸のままばったり鉢合わせ。それだけの話なのですが、その語りが怪談なのです。湯気の中に何かがいる。猿かもしれないとかね。そしてなかなかそれが誰なのを描かない」
「はい」
「話はそれだけです。温泉宿で裸の美女を見た。ということです。これを引っ張って引っ張って書いているのですよ」
「旅行記のような」
「いや、あまり風景描写はありません。本筋とはまったく関係のない世相のことや、人の世の住みにくさなどをぼやいています」
「吾輩は猫のように」
「そうですね。そんな感じです。あれはサロン小説でしょ。特に事件はありませんが、誰かの結婚話ですね。しかし、特に変わった話じゃありません」
「先ほどの温泉宿の話も、それに似ていますか? それなら名作でしょ」
「単純な話なのですが、話だけなら実につまらない。特に大きな展開はない。宿屋までの道で、昔の農村風景が残っているのを見たとか。花嫁が馬に乗っていたとか。宿屋で妙な視線を感じるとか、このあたりはそのままホラーですがね。そうはならない。まあ、誰にでも体験できるような話です。話としては実につまらない」
「文学作品だからでしょ」
「そうですねえ。文学だから、それでいいのですが、その中身は主人公のぼやきで持っているようなものです。つまらん世の中というより、世間は息の詰まるような窮屈な場所だと。温泉宿のある村もそうなんでしょうなあ。そんな息を殺すようなつまらん暮らしをしている中で、その妖しげな女性だけは発展家と言いますか、周りを気にせず生きているような。だから、主人公と湯船で遭遇しても、驚きもしないで、堂々としている。そして、主人公の部屋を覗いたりとかね」
「はあ、じゃ、しっかりとしたテーマがあるじゃないですか」
「そうなんだけど、これは読んでいて退屈でしたよ」
「読んでみたくなりました」
「最初の数行だけは素晴らしい」
「はあ」
「その数行は結構有名なフレーズでしてね。この長編の全てを言い表していますよ。ほんの数語なんですがね。まるで漢詩だ。まあ、この作者は漢詩の素養があったのでしょう」
「はい、読んでみます」
「ご自由に」
 
   了


2017年2月8日

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