小説 川崎サイト

 

遠くへ行きたくない


「遠くへ行きたくないですなあ」
「遠出が苦しいとか」
「それもありますがね。近場だとすぐに戻れる。最近は半日以内で往復できる場所でも遠く感じますよ。まあ、一時間半ほどで行けるところが限界です。できれば一時間。電車に乗ってですよ。歩いたとしても小一時間程度。自転車でも一時間半までなら行けます」
「しかし、自転車で一時間半なら、かなり遠くまで行くことになりますよ」
「そうですねえ。市内から出てしまいますねえ。一つの市の面積なら一時間半もあれば横断できますよ。まあ、横切る場所にもよりますがね」
「でもそれでも遠くまで行っているじゃないですか。電車で一時間でも遠いですよ」
「そうですなあ。市じゃなく県を越えますなあ」
「遠くとはどの辺りですか」
「まあ、日帰りじゃ無理な距離です。これは飛行機に乗れば日帰りできるかもしれませんがね」
「距離の問題じゃないのでしょ」
「え」
「ですから、外出するのが大層になったとか」
「それはありますなあ。昔は遠くへ行きたかった。遠ければ遠いほどいい。景色が違ってきますからね。見るもの全てが珍しいというわけじゃないですが、初めての土地が多いわけですから、それだけでも遠くへ来た意味があります。まあ、近場でも行ったことのない町も多いですが、これはまあ、似たようなものですよ。もっと離れないと」
「じゃ、もう見るべきものは見てしまわれたのでは」
「それもありますが、遠くへ行くのも飽きてきた。それほど始終遠くへ行ってたわけじゃないですよ。旅行なんてたまだし。さらに遠いところへ行けばいいのでしょうが、もうそういう気がなくなっていますよ」
「はい」
「それに若い頃ほどの元気はないので、移動だけでも疲れます。持病もありまして、それが出たときが怖い。近くだと、すぐに戻れますからね」
「要するに気力と体力の問題ですか」
「意識の問題もありますよ」
「意識?」
「意識がもう遠くを望んでいないのでしょうなあ」
「意識が遠のくとか」
「それは気を失いかけているのですよ」
「はいはい」
「そうではなく、遠くの世界です」
「はあ?」
「まあ、自分とかけ離れた世界ですな」
「何でしょう」
「世界が遠いのです」
「はい?」
「自分の世界じゃない」
「何でしょう」
「できるだけ自分から離れた世界は私にとって遠い世界ですよ。分かりやすくいえば、自分らしい世界ほど近い世界です」
「余計に分かりません」
「その遠くに、自分の行くべき場所があり、自分らしいふるさとがあると思っていたのです。若い頃はね」
「何か、詩のようですねえ」
「死じゃないですが、似たようなものでしょ。行き着くところです」
「はい」
「自分の世界といいますか、自分にとっての理想郷のようなものですね。それは常に遠くにあった。そこへ行こうとしていたのですが、これがまた遠い。行っても行っても近付けない。だから、それはもう自分らしい目標ではなかったのでしょうなあ」
「何を差しているのか、混乱してきました」
「遠くへ行きたくないというのは距離じゃない。そして自分探しでもない」
「じゃ、何ですか」
「年ですよ」
「ああ、それは分かりやすいです」
「年を取ると遠くへ行きたくない。それだけの話です」
「最初から、そう言ってくださいよ」
「遠回りしてみました」
 
   了

 


2017年2月10日

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