小説 川崎サイト

 

噂の老武士


「真冬、この時期の雨は暖かいと申しますが、冷えますなあ」
 旅館に逗留している老いた武士が番頭に言う。他に言うことも話すこともないのだろう。老武士は心配させないように毎日宿銭を払っている。それさえ頂ければ大人しく、いい客だ。
 立つ日が決まっていないようで、番頭の観察では誰かを待っているように見える。昔の話なので、待ち合わせの日は一日か二日ぐらい、長い場合は一週間ほど幅がある。しかし、かれこれひと月。
「ひと雨ごとに暖かくなるらしい。次の雨、さらに次の雨を過ぎると春も近い」
「そうですなあ」
 番頭は一日分の宿銭を受け取り、さっと出て行こうとする。
「春までには立ちたい」
「はい」
 この旅籠には一応宿帳がある。そこには西国浪人となっているが、着ているものは粗末なものではない。それなりに身分の高いお侍さんではないかと思われるのだが、お供はいないし、その用件も分からないので、不気味。まさか仇討ちではあるまい。討つ側か討たれる側かは分からないが。
 旅籠の主人は変装ではないかと言っているが、番頭の見たところ、身のこなしから何から何まで武家そのもの。
 旅籠の女房は神様ではないかと、突拍子もないことを言う。主人が訳を聞くと、春先に降りて来る神だと。それは何の神かと問うと山の神。
 山の神とは農耕の神様のようなもので、そろそろ田んぼを作り出す頃に山から降りて来るらしい。ではそんな神さんがどうして長逗留しているのかと聞くと、早く来てしまったのではないかと。
 人それぞれ見方が違うようだ、長く人を見てきた人でも見抜けないことがある。老武士は訳は言わないものの、それなりの目的があって逗留しているのだろう。
 この宿場町は大きな街道沿いではないが、その向こうに盆地があり、小藩の城下がある。その向こうは山また山。城下から本街道に出るには距離があるため、ここに宿場ができた。そこの藩士でないことは言葉遣いで分かる。もっと西国の言葉のためだ。
 最初は宿場町だけの噂だったが、城下まで広がった。謎の老いた武士がずっと逗留していると。身分も訳もありげな立派なお武家だと。
 それだけではなく、近郊の村々にも噂が広がり、わざわざ見に来る人も出てきた。
 そして藩の役人が来て、様子を探る。何か藩に関わるような人物ではないかと。
 その噂で盛り上がっている頃、老いた武士は旅立った。目的を果たしたのかどうかさえ分からない。誰かが訪ねて来たわけではないし、いつもと同じように、宿場周辺を散歩に出る程度で、これといった動きはしていない。
 旅籠を出るとき、大勢の人が見送った。
 ただちょっと長逗留になっただけのことで、騒がしくなったので、立ち去ったのだろう。
 
   了



2017年2月22日

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