物語り
人は自分の物語の中で生きているので、人それぞれに物語が違う。この物語とは自分自身で語っているのだが、独り言を言っているわけではない。自分自身に聞かせるだけの話なら、声を出さなくてもいいし、書き留める必要もない。それは日記のことだが物語性が低い以前に、その人にそれほど高い物語性がなければ、書く必要もないだろう。
しかし日常の細々としたものや、事柄や、その日あったことなどにも物語はある。これは私小説のようなものを差すのではなく、その人がやっている役柄のようなもので、いつの間にか設定ができている。これは自分で作った場合もあれば、そうなってしまったことも。
物語は相手がいての話で、自分で語り、自分で聞くだけなら、語らなくてもかまわない。必要性がないためだ。
しかし、この物語というのは本当のことではない。事実と反してはいなくても、語り方により、意味が違ってくる。
要するに都合のいいように語るものだ。それにより、その人の世界が一応できるのだが、あくまでも仮の話で、本人が語ることと、実際とは違うかもしれない。その実際とはリアルな世界で、これは捕らえきれないものだろう。だからリアルを再現させるために物語がある。そのため、物語はリアルなものではない。このリアルとは本当の世界だ。しかし、何が本当なのかは分からない。
物語と言えば大げさになるが、事情だと思えばいい。人それぞれに事情がある。それが背景にあるため、物事の解釈も違ってくるし、現実に対しての受け止め方も違ってくる。だから、人の数だけ世界がある。その違いはわずかなもので、似たようなものだが、そっくりそのままの人はいない。わずかでも事情が違っていると、認識も違ってくる。
要するに物語とは嘘だが、嘘の中にも真実がある程度だろう。よくできた話ほど胡散臭い。話ができすぎているためだ。物語の作り方がうまいのだろう。うますぎると、現実離れする。
現実というのは実際には捕らえられない。それを観察している本人が一番邪魔な存在になるためだ。
語るに落ちるとは、話に落ちがあることではなく、嘘がばれたときだろうか。言っていることと違っていたりsとか。
それに近いことを自分自身が自分自身に対して語るときにもある。
人が何かを語り出したとき、その背景にある構図や構造などを読む場合がある。しかし認めたくない構造もあり、その事情を敢えて無視することもあるだろう。
人は辻褄合わせをする。それは巧みな物語作者でなくても普通にやっているだろう。そうでないと自分の世界が揺らいでしまう。これは本人が本人のためにつく嘘のようなものだが、物語とは所詮そんなものだろう。そして嘘の中にこそ真実があったりする。
了
2017年2月24日