小説 川崎サイト

 

乱れ筆


 弘法、筆を選ばずというが、大宇陀は筆を選ぶ。筆を選ぶとは良い筆を選ぶということだろう。敢えて悪い筆を選ぶ人はいないはず。弘法大師空海さんが果たして筆選びをしたかどうかは分からないが、どんな筆で書いても達筆だったのだろう。だから筆を選ばずで、選ばなくてもいい。
 大宇陀の場合、筆を選ぶ。腕が悪いので、良い筆でないとうまく書けないわけではない。道具で何とか持って行くということだ。しかし、大宇陀は良い筆を選ばない。筆を選ぶのは悪い筆を使いたいため。つまり敢えて悪い筆を選ぶ。普通の筆でも上等な筆でもなく、悪い筆。
 なぜそうなのか。その答えは簡単で、悪筆を筆のせいにできるからだ。悪い筆が悪筆なのではない。粗悪な筆もあるが、悪筆とは書き方がまずいのだ。筆のことを指しているのではない。
 大宇陀は粗末な筆というか、あまり良い筆で書かない。字が下手なのは筆のせいにできるだけではなく、レベルを上げたくないのだろう。それ以前にレベルそのものが上がらない。あるところで頭打ちになり、それ以後、字はうまくならない。そしてものすごい癖字だ。
 良い筆で書くと、少しは上手に見えるのだが、ほんのわずかで、それほど効果がない。だから良い筆を選んでも仕方がない。
 あまり得意でないことに関しては興味がないはずなのだが、文字は汚いが書く内容は良い。悪筆だが良いことを色々と書いている。それで褒められることもある。ただ、筆遣いと同じで、言葉遣いもうまくない。しかし内容は良い。
 要するに書き文字にしろ話し言葉にしろ、思っていることとはまた別のようだ。筆などに縁がなく、書き物もしたことのない人でも、凄いことを言う人がいる。それを書にすれば売れるだろうと思えるような。しかし、興味がないのだろう。
 大宇陀が悪い筆を選ぶのは、そんな含みがあってのことではない。それよりも、より上のクラスへ行きたくないのだろう。それは周囲の友垣を見ていても分かる。出世し、夢を果たしてもあまり良いことがないのを知っている。上流ではなく下流の川底の石の隙間にいる虫の方が安定しているが、餌にされてしまうだろうが。
 大宇陀の作戦が当たったのか、悪い筆で書くと、悪筆がさらに悪筆になり、また癖字が楽しく踊っている。そして読みにくい。これが当たったのか、誰も期待しなくなった。字が下手な人は、それなりの人だろうと。
 しかし大宇陀はそれなりの人なので、それも当たっている。
 そして今日も悪い筆で、文字を書いている。その文字は毎回違う。決まった書体がないのか、書いているときに狂うのか、筆跡鑑定が難しいような乱れ筆だ。
 しかし、大宇陀は筆へのこだわりが非常に強い。筆そのものに癖があったり、先が抜けたり、先が三本ほどになっていたりと、使い古したり、放置してぼろぼろになったような筆を好んだ。その書き味がたまらないらしい。
 しかし、これは悪趣味というものだろう。こういう人とは昵懇にならない方がいい。
 
   了

 


2017年3月1日

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