小説 川崎サイト

 

吾輩も猫である


 思っている通り行かないとか、思っていたものと違っていたりすると気合いが下がるものだ。この気合いとはやる気のようなもので、気合いが入るときは、何らかのものが得られる場合だろうか。気合いを頑張ると言い換えれば、頑張れば何らかの報酬が得られるため、厳しい状態でも耐えて頑張るという意味だろう。
 では、気合いもなく、頑張ろうと思わない状態とは何だろう。そんなものは考えなくてもいい。普通ということで、よく言えば平常心のまま。
 その平常心というのはあるようでなかったりする。平年並みの気温ばかりが続かないように。
 気合いを入れるのは積極的なことだが、その物事を積極的にやるのではなく、義務的なことで、やらないといけないこともある。あまり大した報酬はなく、見返りもない。やったところでそれほど楽しいことが待っているわけではないので、メンテナンスのようなものだろう。
 気合いを入れて頑張らないと落伍するとか、恥ずかしいことになるとか、難儀なことになるとかだ。こういう場合こそ気合いがいるのかもしれない。入れたくなくても。
 積極的に前に出て何かをする場合、それをやると良いことが起こるとすれば、気合いも入る。それは自然と入るのだろう。しかし、思っていた結果が出なければ、気が抜けたようになる。捕らぬ狸の皮算用のように。そういうのが多いと、気合いを入れただけ損だ。しかし、思っている未来と現実とは違う。物事にも食べ物と同じように賞味期限があるのだろう。時期が過ぎれば、昔あれほど欲しかったものも、それほど輝かない。
 落胆感を味わいたくないので、あまり積極的に仕掛けない人もいる。これはあくまでも「あまり」で、全てではない。手に入ることがはっきりとしていることもあるので、その場合は積極的だが、簡単なものなので、気合いを入れなくてもいい。
 だが、頑張って手に入れたものが思ったものと違っていた場合でも、しばらくすると、それでよかったのではないかと思うこともある。せっかくエネルギーを労したのだから、無駄にはしたくないためもあるが、単に思い違いをしていただけで、期待が大きかっただけかもしれない。
 猫が餌を狙っているのだが、なかなか手を出さない。その餌のあるところに今ひとつ不安なものがあるためだろうか。罠かもしれないし、近付くと、そこは別の猫と接する境界線かもしれない。また、それは食べてよかったと思えるものか、それ以前に食べられるものなのかどうかも分からなかったりすると、うかつに手が出せない。
 人の日常生活もそんなもので、精神生活といっても、野良猫の餌探しに近いかもしれない。
 漱石の吾輩は猫であるの猫とはそこに登場する人々のことで、それを達観して見ている猫こそ、人間だったりする。ただ、猫は人間ではないので、入れ替わることはできない。そのため、人間は出てこないことになる。
 人の行動や精神生活も猫レベルで、猫以下かもしれない。当然社会もそうだ。よく考えると、人間も猫と同じように根は動物のためだろう。少し余計なことを考えることができる程度の。
 猫は一度痛い目に遭ったところには二度と行かないらしいが、人間は懲りずに行く。欲深いためだろう。それで気合いを入れ、頑張るのだが、その本音や事情は別のところにあったりする。
 
   了

 


2017年3月4日

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