小説 川崎サイト

 

日本怪談


 明治になってから多くの西洋人が住み着いた。職を求めて来る人もいる。当然写真家は日本の風景を写した。それらの写真は日本人が写したものと少しだけ違う。写真なので誰が写しても同じようなものだが、視点が違うのだろう。そのため、日本人が写さないような写真が多く残っている。
 それと同じように西欧から来た人が、日本に住み着き、そこで体験したことを日記などに残しているのだが、これは日本人が書いたものよりよく分かる。日本人なら当たり前のこととして特に書かないようなことが書かれている。所謂カルチャーショックだが、その視線が興味深い。
 たとえば日本人の心情、精神について、身近な近所の人と接して、得たものだろうが、日本人と言わず、仏教徒と呼んでいる。日本人自身が仏教徒だと宣言することは普段はない。宗派ならあるだろうが。それに本人が仏教徒かどうかなど自覚がなかったりするが、西洋から来た人の目には、それがOSのように下で動いているのが見えるのだろうか。それは死生観だけではなく、生活の至る所に見えたりするらしい。当然神様もだ。昔は神も仏も似たようなものだったので、日本で根付いたときは同じような味になっていたのかもしれない。それよりも神仏とは関係のない先祖が絡む死生観もある。
 しかし、西洋人から見ると、神道より、仏教の方が分かりやすいらしい。それは多くの言葉を残しているからだ。
 普通の家に水神様がおり、その使いの生き物さえいる。井戸がある家なら水神様がいるのだ。農村ではなく、住宅地や屋敷町でも。それは井戸があるためだ。水神様は見えないが、その使者というか、露払いがいる。お先棒担ぎとか、先導者、お使いだ。田んぼの神様は山の神様で、山の降り口にお稲荷さんがある。稲の神様らしい。田植えが始まる前に山から下りて来るのだが、その先導者がお稲荷さんらしい。本当かどうかは知らない。稲の神様は犬だと言われたりもする。
 井戸にいる水神様の場合は鮒。川にいるあの鮒だ。それがつがいで二匹、必ず井戸の底にいるらしい。そして井戸替えをしたとき、その鮒を桶に待避させる。もし、いないとか死んでおれば、新しい鮒を入れるのだろう。
 神様のお使いというより、幼虫などを食べてくれるので、鮒を入れたのだろう。今でも排水溝などに鮒ではなく、大きな鯉を放している。これで蚊が少なくなったり、川が綺麗になるのだろう。
 だから、冷蔵庫にキムコを入れるように、鮒を入れるようなものだ。
 西洋から来たその人は、当然西洋人と比べる。ただ、明治の話なので、その後、西洋式教育を受けた人たちにとって、そういった神秘との繋がりは迷信として消えてしまったのだろう。だから、明治のその時代の視線は、今の日本人なら、西洋人の視線で見ることになるのかもしれないが、明治までの根は今も残っているはず。本性のようなものが。
 幽霊には普通の幽霊と生き霊の二種類がおり、怖いのは生き霊らしい。本人でさえ、そんな恐ろしいエネルギーを出しているとは知らないようだ。日本人が我慢強いのは、生き霊を出さないため。しかし自制してもだめな場合、出るようだ。しかし、それを出すと迷惑がかかるので、我慢して出さないようにすることが必要とか。怒りを極限まで我慢する。これが怖い。
 だから、そういう精神生活。元の意味はもう分からなくなり、習慣に近いものとして身につけているらしい。
 そして、日本人の怖さや特性を、この西洋人は小説に書いている。その人は誰もが知っているラフカディオ・ハーン小泉八雲だ。
 
   了


2017年3月8日

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