小説 川崎サイト

 

河童もいる川


 曽根は河童のいる川を知っている。実際には河原で、背の高いススキのような草が生い茂っている場所。土手道からも見えるが、草ばかり。道もない。そんなものは必要ないのだろう。その川がもう一つの川と合流するところが、最も広い川幅で、まるで関東平野。実際に水が流れているのは僅かな面積しかなく、大河の流れとはまた違う。しかし、これだけの川幅があるのだから、大雨が降れば水が集まってくるのだろう。そうでないと、こんな川幅にはならない。
 川の周辺は普通の住宅地で、曽根もそこに住んでいる。一人暮らしの老人で、地元の人ではない。宅地化が進む前まではだだっ広い田畑や果樹園だった。
 曽根はこの川の土手を散歩するのが日課だが、そのうち土手から降りて、草むらの中に入り込むようになった。いい趣味なのか、悪い趣味なのかは分からない。散歩の目的が少し違ってくる。
 草が動くことがある。風もないのに。鳥でもいるのかもしれない。それなら鳥の巣だと思い、歩くだけの散歩から、探検になる。
 草の中を手を切りながらかき分けて奥へ入って行ったのだが、もうそのときは動いていた草の位置など分からなくなっており、何処を向いても草草草。こんな草の中に入り込むのは子供の頃の野糞以来だ。紙がないので、困ったことがある。
 周囲を見回しても草があるだけ。僅かな隙間を見付けて、そこに入り込もうとするが、出口なのかどうかは分からない。
 そして風もないのに、草がまた動き出した。すぐ目の前の草なので、そっと倒すが何もない。力を入れすぎたのか、茎が曲がり、嫌な臭いがする。後ろを振り向くと、そこの草も動いている。
 怖くなってきたので「誰かいるのか」と問うが、答えなど最初から期待していない。
 少し地面が見えるところに出たので、そこで座り込む。そして相変わらず草が揺れているのが見えるのだが、これは風だろう。部分的ではなく、周囲の草の先も揃ってなびいている。
 土だと思っていた場所は、藁のようなもので、畳が崩れたあとのようだ。こんなところに畳など捨てに来る人はいないはずなので、大雨のとき、流れてきたのだろうか。
 土手からそこまでの距離はしれている。川岸はまだまだ奥。特にここは一番膨らみのある場所。
 空を見ると、太陽の位置が分かった。草で隠れているが、これで方角が分かる。当然、戻ることにした。
 太陽を左に見ながら進めばいい。しかし、その方向は草の密度が濃くて、押し倒さないと進めない。それで行けそうな隙間を見付けたのだが、方角が違う。途中で角度を変えればいいと思い、分け入った。
 すると、道がある。筋のようなものだが、それが続いている。草と格闘することを思えば、そちらへ行くだろう。
 かなり歩いたようだが、風景は変わらない。草しか変化するものはない。太陽は雲に入ったのか、もう見えない。そして曇りだし、空が白っぽくなっている。雨でも降り出す前のように。
 そして、土手が見えてきたのではなく、音がする。川の流れる音だ。道は川岸へ続いていたのだ。これは何か作業用の道かもしれないし、魚釣り道かもしれない。
 そして川が見えた瞬間、そこにいた。
 気付かれたのか、姿はなく、ポチャンの音と水しぶき、そのあと拡がる波紋だけ。潜ったのだろう。普通なら大きな魚が跳ねたと思うだろうが、それが河童であることを曽根は知っている。「河童もいるでよ」と、土地の人から聞いていたので。
 曽根はこれでもう河童を見たことにしておこうと、ここで括ってしまった。河童よりも草が動く方が怖かったためもある。そして「河童もいるでよ」は、河童以外にも何かいるのだろう。
 怖さがこみ上げてきたので、その狭い筋のような道を引き返した。河童がいた川岸まで行っても、そこから先は川の中に入らないと、もう行き止まりだ。水は草の根元まで来ており、川岸沿いに進むこともできなかった。
 その草むらの筋のような道を進むと、土手が見えてきた。その道はそこで終わっており、土手との間には距離がある。だから土手からは見えなかったのだ。
 そしてまた草むらをかき分けながら、土手に上がり、その上に目印に、草を結んだ。
 これで、いつでも、あそこへ行けるようになった。
 そんなことをして何が面白いのかは、曽根だけが知っている。
 
   了

 


2017年3月11日

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