小説 川崎サイト

 

桜泥棒

 
 薬臭いのではなく、胡散臭い漢方医が処方箋を出した。長細い小さな紙切れに書かれている。ものすごい数の薬箱の引き出しがあるのに、その中にはないようだ。
 信三郎の病は気の病ではなかろうかと言われ、くしゃみがよく出るのは、そのため。しかし春先なので、花粉が飛んでいるのだろう。
 処方箋には信三郎が住んでいるところから一番近くにある桜の花びらをお茶に入れて飲むというもの。また、桜茶漬けにして食べてもいいとか。
 折良く桜が咲いている。満開近い。今なら桜が手に入る。いい時期に診てもらったことになるのだが、うかうかしていると散ってしまう。今ならまだまだ猶予がある。
 問題は一番近くにある桜の木だ。信三郎の屋敷には桜の木はない。散り際が現くそ悪いので植えていない。
 そうなると、隣の屋敷だが、それは見えている。塀の向こう側だが、その塀は共同のもので、二つの屋敷の仕切り。土塀ではなく、板塀。その隙間からのぞけるのだが、そんなまねは誰もしない。それに庭と庭の端なので、庭の一番奥のためか、普段、用はない。庭には出るが、そんな奥までは行かない。それにどちらの庭にも植え込みがあり、茂みのようになっている。お隣の桜は、そこにある。おそらくこれが一番近い場所にある桜だろう。
 信三郎は、植え込みの奥まで行き、板塀と植え込みに足や手をかけながら、こちら側に伸びている手頃な枝を見つけ、引きちぎった。これだけあれば、桜茶でも桜茶漬けでもできる。
 そして、すぐに家人に言いつけ、桜茶を作らせた。
 しばらくすると、お隣から苦情が来た。桜泥棒だと。
 そんな大層な話ではないのだが、一声かければよかったのだろう。信三郎は謝りに行った。
 その屋敷に入るのは初めてで、今は隠居さんが住んでいるはず。
 庭先にある座敷に通された信三郎は、訳を聞かれた。いい年をした武士が桜をむしったのには訳があると。気の病の説明すると、その病の影響でむしったのかと言われたので、漢方医の話をした。それで、老人は納得したようだ。
 しかし、信三郎は不審に思い、聞いてみた。
 桜泥棒をするところを見ていたのかと。
 隠居は庭を見るが趣味で、庭の奥に一木だけある桜を眺めていたらしい。
 信三郎は何度も謝ると、老人は手で制し、もうそれはいいから、その気の病に効く話は本当かと聞いた。
 胡散臭い漢方医なので、当てにならないが、試してみると、気が涼やかになり、くしゃみも出なくなったことを告げると、隠居は、よし、と声を上げ、庭に降りていこうとするので、住んでいる場所から一番近い桜に限ると付け加えた。
 隠居屋敷の桜は一本だけ。何処を起点にすべきか分からないが、そのお隣にも桜の木はある。屋敷内の桜よりも、近い。これは母屋から見た場合だ。
 信三郎は例の処方箋を出し、文字を丁寧に読み直すと、住んでいる場所から一番近くにある桜となっている。だから、住んでいる場所は計算に入らないのだろう。
 隠居は信三郎のようなまねはできないので、お隣に声をかけ、桜の花をもらうことにした。
 その説明を隠居は詳しく話したことから、そのお隣さんも興味を持ち、同じことをやり出した。
 
   了
 


2017年4月12日

小説 川崎サイト