小説 川崎サイト

 

知的ゾンビ達

 
 外があまり変わり映えしなければ、内を探ってみる。実は、こちらの方が広く深いかもしれない。また、内があるから外もある感じで、外は内の延長かもしれない。
 内と外とが接するところ、それは普通の現実であり、普通の状態だろう。その外とは、内と関係する。内にそれがなければ外に出ても、それはないに等しい。見えていても見ていない。
 内が充実すれば外も変わる。内に変化があると、外も変わり映えしないものでも変わり始めるし、外の世界も拡がる。
 これは興味のないものは現実にはないようなものだ。あることは分かっているが、それ以上その現実をめくらない。表紙だけを本屋で見ているようなもの。棚が並ぶ通路なので、目に入るだけ。
 その本屋に知的な人がいる。客だが、毎日来ている。知的生活を送っているのだが、そのソースは殆どが本屋。だから本が先ずある。そこから吸収し、内の知を高めているのだろう。吸血鬼のようなものかもしれない。補給しないと死んでしまう。ただ、昼間でも歩いているので、ゾンビかもしれない。ゾンビは血よりも、肉を囓りたいだろう。
 その男、血ではなく、知に満たされ続けているため、非常に濃い。たまに輸血でもして血を抜かないと、だめだろう。しかし、溜め込むだけ溜め込んでいる。知はいくらでも量が入る。そして、古い知は忘れてしまったりする。知は満杯だが、頭の中で思い浮かべられる量はしれたもの。
 男は、知的生産者と名乗り、知を生産しているのだが、実際にはコピーだ。引き出しが多いだけ。
 情報は得なければ分からないが、知は何もなくても編み出せる。本など読まなくても、知は回転する。
 それは内と外との境目あたりで発生する。ここが現実でのリアルな現場だ。そこで役立たなければ、意味はないのだが、単なる知的好奇心を満たすことで満足する方が多い。予想や、仮説が当たっていたかどうかを確認して、満足を得たり、意外な展開になっているので、追跡したりとか。
 本屋へ毎日通うこの男、知に飢えていた。毎日知的生活を続けているのに、満たされない。
 この男だけではなく、常連の客が何人かおり、店内をゆるりと移動している。昨日も見た本の背表紙を見ているだけ。
 物欲があるように、知識欲がある。しかし多くの常連客が店内をうろついている姿は、あまり知的には見えない。
 
   了

 


2017年4月21日

小説 川崎サイト