小説 川崎サイト

 

線病

 
 ペンは何か良い響きがある言葉で、内村は昔からペンが好きだ。鉛筆よりもシャープペンが好きなのは、仕掛けがあるためだろう。そして金属や樹脂でできている。精密機械のような仕掛けで、鉛筆もいいのだが、長く使うと短くなり、使い捨てとなる。シャープペンならいつまでもその軸を使える。いつもの使い慣れたペンとして。
 つけペンや万年筆でもいい。ボールペンでもいい。ペンと名が付けば良かったりする。それを使って書くのは絵や文字だが、最近ペンを持つことが減っている。筆記用具をあまり使わなくなったためだ。鞄の中にメモ帳とボールペンを入れているのだが、取り出してメモすることは殆どない。カメラで撮した方が早かったりする。
 またペンを使わなくなったのはパソコンやスマホの時代になったためだ。ペンがキーボードになったようなものだが、書くことには変わりはない。
 内田はペン画が好きなのは、ペンで書かれたものというより線で書かれているためだ。その線をペン先だけで書く。インクの軌跡が線になる。また線と線の間隔や重ね具合で濃淡ができる。世の中は線ではできていない。線など何処にもない。書いた線は存在するが、線の集まりが風景ではない。
 文字も線の集まりで、点もあるが、面はない。しかし書かれた一文字は面的に見える。そこではもう線などは見ていない。線で構成された図柄を見ているようなものだ。よく目にする文字なら見ただけで分かる。そうでないと文章など読めないだろう。
 ところが内田には線病がある。風景が線で見えるわけではないし、何でもかんでも線に置き換えて見えているわけでもない。そうではなく意味をなさない線だけが見えてしまうことがあるためだ。決して異常なことではないが、インクの濃さが気になったり、紙の白さが気になったりする。同じ白い紙でも同じ白さではない。材質が違うと反射が違うのだろう。また、同じ紙を複数重ねて見たとき、後ろ側と前側とでは紙の白さが違う。光線は同じように当たっているのに。
 文字を見ても、インクの盛り具合が気になったりする。余計なものを見ているのだ。
 本質を見ないで枝葉ばかり見るのとはまた違う。ものそのものよりも、その側面ばかりを見ているのともまた違う。もっと無機的なものを見ているのだ。
 内田は人が話していると、その唇を見る。目でも顔でもなく、口だけ。しかも唇だけ。こういう唇ならこういう声になるはずと、思った通りの声や喋り方になっていたりする。唇を見れば、この人はどんなタイプの人なのかも分かったりする。そして話の内容よりも、唇という機能や形ばかりを気にしている。しかし、話を聞いていないわけではない。
 線病は物の輪郭を見るのではなく、線そのものを見ていることになる。線によって表されたものではなく、その線が綺麗とか、一寸ギザッとしているとか、太いとか、細いとか。それを見ている。
 また、一般的な風景も、線画に一度変換して見たりする。内田は絵は得意ではないので、画けないが、頭の中で線画を画いている。
 しかし、線やペンが好きなのだが、文字は汚い。希有な特性だがアーチストにはなっていない。
 だが、文字や絵は下手だが、内田の線は非常に綺麗だ。
 
   了


2017年6月24日

小説 川崎サイト