小説 川崎サイト

 

隠遁士

 
 畳屋に隠遁士が来たらしい。数日後畳屋は畳まれ、ただの小屋になった。作業所がトタン小屋だった。隠遁士は死神とは違い、命までは持って行かない。穏やかに言えば隠居、引退、廃業を勧告しに来る老人。商売が浮き世とすれば、浮き世を捨て、引き籠もれ程度なので、それほど悪いものではない。ゆったりと余生を送れという程度。
 隠遁士はその引導を渡しに来る。畳屋はそれを受け取り、畳んだことになる。ちょうど潮時で、年も取り、腰も痛く、畳を動かすだけでも辛かった。
 隠遁とは積極的なもので、好んだり望んだりして世を捨てる。畳屋が素直に引導を受けたのは、畳屋をしなくても食べていけるためで、もう十分畳屋をやり倒したので、未練はない。今までは生活のためにやっていたが、働き者のため、結構財を得た。散在するわけでもなく、地味に暮らしていたので倉が建つほどではないが、生活費を得る必要はもうなかったのだ。
 豆腐屋にも隠遁士が来た。畳屋とは幼友達だが、隠遁士が来なくても廃業状態だった。念を押されなくても辞めることになっていた。
 酒屋にも隠遁士が来た。こちらはまだ辞めるわけにはいかない。商売は繁盛し、倉も建っているのだが、意外と借金が多く、その他、色々と維持費がかかるため、辞めるわけにはいかない。隠遁できない理由を伝えると、気が変われば付いて来いと言う。何処へ行くのは知らないが、酒屋の経営や家の事情が面倒になっていた時期なので、誘いに乗った。これが死神なら行き先はあの世だが、隠遁先なので山の中でも行くのだろう。ここが隠居と違うところで、隠居はまだ俗世間にいるが、隠遁者はもう縁を切ったようなもの。
 約束の場所と時間に三人は集まり、隠遁士を待った。この老人は白っぽい顔で表情がほとんどない。
「行きましょうか」ということで、歩き出した。
 夜中のことなので、何処をどう通ったのかは分からないが、明るくなる頃には山中にいた。近くの山かもしれないが、山の形に記憶がない。
 しかも暗い山道をよく歩けたものだ。これはこの世と地続きの山中ではないように思えた。それなら隠遁ではなく……。
 うたた寝から覚めた畳屋は太い畳針の先を少なくなった頭で掻いた。これが癖になっていた。下手をすると皮膚を突いてしまう。だから眠気覚ましにはちょうどよい。
 腰も痛い。そろそろ引退したいと思った。
 
   了
 



2017年7月12日

小説 川崎サイト