想像上の動物が図鑑に載っている。犬や猫と一緒に載っている。珍しい犬が載っているのは分かるが、存在しないような犬が載っているのは問題かもしれない。
しかし、図鑑に載っている珍しい犬を一生見ることがなければ、存在しないのと同じではないが、図鑑上の動物のままだろう。
だからといって、明らかに存在しない動物がいる。たとえば龍とか麒麟だ。妖怪の絵もそうだ。
池端は図鑑を見ながら、そんなことを考えていたのだが、存在する動物よりも、架空の動物に興味が走った。
存在はしないのだが、それを想像し、絵にした人が過去にいたことに興味がいったのだ。
それは池端がビジネスシーンで嘘ばかり語ってきたこととも関係がある。絵に書いた餅を売っていた。
だが、人々が共鳴しなければ、架空の動物も長生きはしない。架空であっても意味深い動物のためだろう。
なんらかのシンボル性が動物にはある。干支がそうだ。
池端が生み出した架空のビジネスモデルがいつのまにか架空ではなくなってきた。
非常に紛らわしい事態になっている。
架空の場所でビジネスが発生したためだ。存在しないはずの動物が、あたかも現実にいるかのような設定が許される場だった。
嘘の中でつく嘘は、嘘だと言い切れない。足場が嘘なのだから、その場では正しいのかもしれない。
池端はまた図鑑に目を移す。江戸時代の図鑑だ。
存在しないものも載せているのは洒落や冗談ではなく、こういうものもあるということで、存在の有無が問題ではない。
これはありえないと思えるものを、こっそり紛れ込ませているわけではない。堂々と並んでいるのだ。実在の動物と同じ扱いなのだ。
人は本当の現実よりも架空の現実を好む。
これが池端が出した結論だ。
しかし、架空の動物を見ていると、何かに似ていることが分かる。組み合わせているのだ。全くありえない形では説得力がない。イメージを紡ぐ土台がないためだ。
次のページをめくったとき、池端は思わず目をそらせた。妖怪のような動物だった。
それは池端の姿を写し取ったような化け物だった。
了
2007年4月28日
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