小説 川崎サイト

 

迷霧

 
「方角が分かりません」
「この霧で迷われましたかな」
「それほど濃くはありませんから、それは大丈夫です」
「じゃ、目的地が分からないと」
「はい」
「じゃ、やはりよく見えないので、道に迷われたのでしょう。今、何処にいるのかが分からなければ、目的地へは向かえませんからね」
「そうなんです」
「ここは瑞宝三丁目です」
「そう言われても分かりません。国道はどちらの方角ですか」
「国道は二本走っています。いずれ交差して一本になるのですがね。それで、何処へ向かっておられるのですか。国道の近くですかな」
「はい」
「住所は」
「知りません」
「じゃ、何処です」
「店屋です」
「有名な店ですかな」
「いえ、小さなうどん屋です」
「はあ」
「ご存じないですよね」
「大きなうどん屋なら国道沿いにありますが、小さいのはねえ。で、うどんを食べに行かれるのですかな」
「はい、急にきつねうどんを食べたくなりまして。しかも昔一度行った店が、この近くにあるはずなのです。それで、ここまで来たのですが」
「小さなうどん屋さんねえ」
「分かりませんか」
「小さな店は潰れていますよ」
「じゃ、この辺りの人はうどんが食べたくなればどうするのですか」
「だから、大きなうどん屋が何店かありますから、そんな心配は無用ですぞ」
「僕が昔、食べた、あのきつねうどんが食べたいのです」
「ほう」
「腰がなく、唇でも切れそうなうどんでして、油揚げに艶があり、少し黒いのですが、この油揚が甘いのです。しかもいやな甘さじゃなく、芯のある甘さでして、昆布出汁とその油揚げの油汁がぶつかるあたりの汁が絶妙でしてね」
「あ、そう」
「分かりませんか」
「特にきつねうどんには興味はありませんので、今一つピンときませんが」
「場所、分かりませんか」
「だから、もうないと思いますよ。あなた、それを食べに来られたのはいつ頃ですかな」
「二十年ほど前です」
「そりゃ無理だ」
「セーラー服の娘がいましてねえ」
「あなたのですか」
「いえ、そのうどん屋の娘です。学校から帰ったところなんでしょう。きつねうどんを運んでくれました」
「そういう思い出もあるのですな」
「当時、僕も高校生でして、自転車で遠出して、お腹がすいたので、うどん屋に入ったのです」
「じゃ、両方の思い出が」
「そうです。今、考えると、あれは孫娘だったようです。なぜなら主人は真っ白なお爺さんでした。綺麗なお爺さんでした」
「それが国道沿いに」
「いえ、国道沿いの質屋の横の道を入って、店屋の通りが少し続いていまして、その端にありました」
「国道沿いの質屋。ああ木村屋さんでしょ。もうありませんが、それなら、反対側ですよ。戻られたらいい。そして真っ直ぐじゃなく、二つ目の角を左に入れば、国道に出ます。木村屋さんはインターネットカフェになったので、すぐに分かるでしょう。そこから西へしばらく行けばありました。道は残っていますから、行ってみられては」
「質屋の名前を知っているのでしたらうどん屋の名前も分かりませんか。または記憶は」
「私もたまに通る程度で、質屋の木村があったのを覚えている程度ですから、その奥のうどん屋さんの記憶など、全くないですぞ」
「有り難うございました。行ってみます」
「もうないと思いますぞ」
「行ってみます」
「方角を間違わないようにしなされや」
「はい、有り難うございます」
「ところでお爺さんは、こんな霧の深い夜、何をされているのですか」
「なあに、ただの徘徊なので、ご心配なく」
「はい、かい」
 
   了


 


2017年8月10日

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