小説 川崎サイト

 

釣り落とした魚

 
 昔にあって今はなくなってしまったものがある。あの頃いやというほど目にしていたものでも、もうなくなってしまい、行くことも見ることも、噂さえもない。何かの話のとき、たまに出て来ることもあるが昔話だ。十年一昔、二昔前、三昔前のことなら、遠い昔と変わらないが、個人の中では、ついこの前のことのように思えたりする。
 その消えたもの、別の形を取って現れることも多いが、昔に比べると物足りなかったりするし、今は不可能な事柄もある。これは時代の風潮でそうなってしまった場合、その風潮は滅多なことでは以前には戻らない。
 生まれる前に既になくなっていたものは気にはならないが、よく見かけていたものがなくなってしまうと残念だ。無念と思うほど大事なことではなく、少し思いが残る程度。それがこの先戻ってこないことが分かると、もったいないことをしたと、残念がる。
 これは昔がよかったという話ではなく、その昔に戻っても、それほどよいものだとは思わなかったことも含まれる。当時ならよくあることで、ありふれていたのだ。
 こういう残念無念な思いが、その復活のような形で、新たなものを作り出すのかもしれないが、それはよかった時代に向かっていることになる。だから過去へ向かう未来となるが、そこだけをワープさせるわけにはいかないので、当時と同じものは不可能だ。
 過去が未来を作るにしても、失ったものを取り戻す話になる。それには過去にそれを体験したことのある人でないと、強い思いで進めないだろう。
 しかし、どうしても取り戻すことが不可能な場合、別の形で得ようとする。これは置き換えや代わりののようなもので、ないよりはまし程度。
 ただ、そんな感情を常に抱き続けることは希で、何かの折、思い出す程度だろう。何となく今風なものと人々も同化してしまうためだろう。
 また、あのとき、行ったり、見たり、触れていればよかったのにと思うものでも、過去に戻り、体験したとしても、思ったより良くなかったりする。
 感情というのはつかみどころがなく、思い違いや錯覚も多い。と言いながらも、昔の人達も、過去への思いなどをよく口にしている。過ぎ去りし過去は、その当時よりもよく見えるのだろうか。
 
   了

 


2017年8月31日

小説 川崎サイト