よく分からない話
一度嫌な思い、怖い思いをした場所へは二度と行かない。猫などがそうだ。逆に一度いい思いをした場所、気持ちが良かった場所へは何度でも行きたくなる。これは場所だけではなく、事柄にも当てはまる。
しかし、何度も嫌な思い、怖い思いをしながらも行くことがある。これはそれを超えるだけの良い事があるためだろうか。それも何度も何度も嫌な思いになるのなら、そのうち行かなくなるだろうが。
我慢とか辛抱は、その辛さを乗り越えるときに必要で、これはある程度は耐えるだろう。最初から行く気がしない場合は別で、その方が利口かもしれない。
我慢することでの成果が大したものでなければ、我慢強い人と言うより、余程鈍いか我慢するのが好きな人になる。しかし、それは別の趣味だろう。
快不快は単純なセンサーだが、それだけに頼っていると、今一つ進歩がない。これは進歩や成長などを望まなければ問題はない。好き嫌いだけで生きていけばいい。
しかし、好きなこともそうざらにあるわけではなく、簡単に手に入る快感も、徐々に薄くなるようで、以前ほどには気持ちよくならなかったりする。
悪いことでもなく、怖くも危険さもないのに、なぜか嫌がることもある。何を恐れているのか分からなかったりする。しかし、そう感じるのだから、何か落とし穴でもあるのだろう。油断できないような。
快楽主義というのもあるが、そんなに快楽が沢山あるわけではなく、快楽ばかりでは逆に飽きるだろう。ここで出てくるのが陰陽の関係だろうか。このバランスで何とかなるらしいが、そんなことは普段から心がけるわけにはいかない。
ただ、おやつでも、甘いものばかりを食べていると、辛いもの、塩気のものが欲しくなったりする。どろっとした飲み物ばかりだと、さらっとしたお茶などが飲みたくなる。これも陰陽のうちだ。
つまり、自身の定点は意外と細かく動いており、好き嫌いも、変化する。そのときは好きだったとか、そのときは嫌いだったとかも。
自分の定番があるようでなかったりするが、自分が思っている自分というのもまた変化するためだろう。
認識しても、すぐに風化するし、その認識も賞味期限が切れたりする。当然認識の仕方が変わると、そのものに対する態度も変わるだろう。
こういった精神的な話は、高きも低きもあり、何やらよく分からないことになるが、リアルというのは分からないということだろう。それでは不便なので、何かをあてがっているだけかもしれない。
了
2017年10月1日