小説 川崎サイト

 

日常を離れる意味

 
 日常からふっと抜け出したいこともあるが、田村にとり、それは気分と言うより意味の世界に近い。それがどういう意味なのかを考えるため。意味を考えると、それは何処までも続くほど深い階層が待っている。人は意味の世界で生きているともいえるのだが、意味を考えなくても当然生きていくことはできる。ただ、まったく意味が分からないとか、意味を知らないわけではない。最小限のものは何となく分かっている。その分かり方にも問題はあるが、本人が思っているところの意味が世界の全てに近い。だから意味の数だけ世界があり、人の数ほど世界がある。一人一人に空があるという言葉も残っている。これは意味の空だろう。決して複数の空が存在するわけではないが、存在というものも、観察するものがいなければ存在しないという説もある。自分がいなくなっても空はあるだろうとは思うが、虫などは空について考えもしないかもしれない。だから空はあることはあるが、ただの空間。そして人は空とは思っていないちょと高いところでも、虫にとっては空になる。空も一寸上も同じようなものとして。
 さて、日常から一寸と離れたいという意味は、ひと様々だが、そう思うだけで、相変わらずの日常を続けている人もいる。そしてたまに出掛けたりする。竹中はそのタイプだが、最近徐々に、そのたまに、のたまが長くなった。だから滅多に出掛けなくなった。それで支障もなく、また不都合も起こらず過ごしているので、日常から出る必要性はないといえる。しかし、ここで意味が出て来る。
 いつもいつも同じ様なことをしていていいものかどうかだ。
 つまりたまには日常から離れることに意味がある。その間隔が長くなり、滅多に出掛けないとなると、その意味が弱まっているのだろう。出掛けても無意味なことが多いこともあるし、それほど凄い世界が拡がっているわけではないことを知っているためかもしれない。
 この日常から一寸と離れる。本当に一寸で、半日でもいいし、もっと短くてもいい。すぐに戻れることが条件だ。だから、その距離では大した変化はない。
 それよりも竹中は日常に別の意味を見出した。こちらの方が興味深かったりする。それは同じことの繰り返しでも、上手く繰り返せたかどうかだ。繰り返し方の調子がよかったかどうか。
 歌手が同じ歌ばかり何百、何千回も歌っているのに近い。今日の出来はよかったかどうかだ。歌い方は殆ど変わっていない場合、その声やリズムを作るとき、結構苦しいときもあるはず、楽に声が出なかったりする。当然ノリもある。気持ちが入っていたかどうかなどだ。それらは毎回バラバラかもしれない。その日のコンディションにもよるし、状況にもよる。
 同じ様なことを繰り返している日常的な事柄でも、それなりに変化があるのはそのためだろう。ものは変化していなくても、同じように持っていくのが苦しいときもあるし、楽にこなせることもある。
 そして、たまに別のことをしたくなるのだが、たまには違うことを入れるべきだという意味で。
 だから、今の竹中にとり、出掛けたいから出るのではなく、たまにはそれを入れた方がいいという意味での話になっているようだ。
 それらは別に深い話ではなく、誰でも普通にやっていることだろう。
 
   了


 


2017年10月11日

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