小説 川崎サイト

 

宵の口

 
「宵の口へ行かれましたか」
「え」
「宵の口へ入られましたか」
「暗くなってから、何か」
「時間じゃなく、口です」
「入り口」
「そうです。暗くなってから開く入り口があるのです」
「え、何かのたとえですか。隠語ですか」
「宵へ行く入り口です。それが開きます」
「夜でしょ。宵って」
「そうです」
「じゃ、もうそんな入り口がなくても夜は来ますよ」
「夜ではなく、場所です。宵という世界があるのです」
「ど、何処に」
「何処に現れるのかは分かりません」
「じゃ、そんなところへは行けないでしょ。いきなりそんな入り口が出現するのですか」
「門や、ドアのようなものじゃありません。しいていえば長い」
「長い入り口ですか」
「そうではなく、宵の口は普通の場所からいきなり切り替わるのではなく、歩いているうちに徐々に入っていくのです。しかし、そこはまだ宵の口で、門から母屋の玄関までが長いのです。だから最初は宵の口に入ったことさえ分かりませんが、徐々に違ってきます。周囲の風景が」
「はあ」
「たとえばいつもの道なのですが、もう暗くなっているので、昼間ほどはよく見えません。建物などは変化していませんが、奥へ行くほど徐々に変化していきます。宵の世界はそのように徐々に立ち現れてくるのです」
「宵とは夜でしょ」
「そうです。夜の中に夜があるのです」
「はあ」
「ですから、宵の口はただの夜です。よく見慣れたね。しかし、先へ行くほどもう一つの夜、宵へと入って行きます。宵の口はその過程なのです」
「夜の中に夜があるのですか。それじゃ、見分けが付かないじゃありませんか」
「もう風景が違ってきています。この国のものなのか、あるいはこの国の古い時代のものなのか、はたまたこの国にではなく異国のものかさえも分かりません」
「あ、そう」
「夜の中の夜。これは真の夜ではなく、別の夜なのです。異国かもしれませんが、そんな国など存在しないでしょう」
「あなたはその宵の口から宵の世界へ入られたのですか」
「いえ、宵の口までです。少し行ったところで出てしまいました。徐々にややこしい風景になりつつあったのですが、元の通り道に戻っていきました。私が後ろ側へ戻ったのじゃありませんよ。風景が戻っていきました」
「何を見られたのです。どんな風景に変わっていったのです」
「少しだけ違うのです。大きな変化じゃありません。しかし奥へ行くほど建物の形が妙になっていき、その先を見ると、あるはずの外灯がもうないのです。それでも月明かりで、町並みはそれとなく見えています。もういつもの通りとは別物で、そんな場所など存在しないことがはっきりと分かりました。道に迷ったんじゃありませんよ。一本道で、いつも通っている道ですからね。牛乳屋の看板文字が、まったく読めない妙な文字に変わっていました」
「はあ」
「時間的な意味での宵の口に注意しないといけませんよ。この時間、もう一つの宵の口がありますからね。私はそこへ入り込んだようです。さいわい長い宵の口を進んだけで、本当の夜の世界までは辿り着けなかったので、戻れたのでしょうねえ。何せあなた、夜の中にある夜ですよ。これは入り込めば出られなくなるはず」
「夜中に怪談をすると、怖くなるようなものですか」
「そんなところですかな」
「一つ聞きたいのですが、先へ先へと進むと風景が違ってきて、さらに進むと戻ってきたわけでしょ。一歩も後退しなかったわけですから、ある距離を歩かれたのです。戻ったとき、何処にいました。宵の口が出たときの場所なのか、歩いた分、進んだ場所なのか」
「ところが何処から宵の口が始まったのか分からないのです」
「でもいつもの宵に戻ったときの場所は覚えておられるでしょ」
「忘れました。それに暗いので覚えていません」
「その後、どうされました」
「いつもの道なので、いつものように歩いて家へ」
「興味深いのは夜の中の夜ですねえ」
「そうです」
「その感覚は何処から来たのです」
「分かりませんが、夜の中にもう一つ夜があるように感じたのです」
「はい、有り難うございました」
「参考になりましたか」
「その宵の口が現れるのを楽しみにしています」
「夜の中の夜ですから、これは夜の世界ではなく、黄泉の世界かもしれませんから、お気を付けて」
「はい」
 
   了





2017年10月23日

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