小説 川崎サイト

 

心の目で見る

 
 心眼。これは難しい問題だと竹田は考えた。「心の目で見よ」などとよく言われている。また「心を込めて」とかもある。この心とは何だろう。心に目があるのなら、顔に付いている二つの目は何だろう。
 心眼で見る。これは一眼なのか、二眼なのかの問題ではなさそうだが、心眼について考える場合、どの目を使っているかだ。これは普通の目だろう。いつもの目で物事を見ている、あの目だ。その目は心眼ではないので、心眼について考えるということはどうなのだろう。
「心の目で見よ」という意味を普通の目で見ていることになる。だから視覚的なことだけを差すのではないことは分かるが、目を開けていないと、何も見えなかったりする。やはり五感で観察している。この「見る」というのは視覚がメインだが、それだけではない。
 しかし、心眼ではなく、いつもの目で物事を見ている目で心眼とは何かと考える場合でも、何となくこういうことだろうとは分かる。何も心眼については心眼で見なければ、心眼が分からないわけではない。そして本当に心眼で見てしまった場合は分かるとか分からないとかではなく、ダイレクトに来るのだろう。「よし分かった」ではなく、分かったことさえ意識しないような。
「竹田君、また怪しいことをやっていますねえ」
「あ、はい、心眼について一寸」
「心の目ねえ」
「はい」
「魚の目なら左の足の裏にあるんだがねえ」
「先生、今日はどうかしましたか」
「何がかね」
「柔らかいので」
「そうか」
「いつもなら、そんな研究はやめなさいと言われるところなのに」
「いや、心眼は別ですよ。そんなものないからです。ないものは研究できないでしょ」
「でも、心眼と言われているものが差しているものがあるでしょ」
「ない」
「ああ解答が早いようですが」
「心は否定しませんがね。目はだめです」
「ですから、その目ではなく、心の目ですから」
「じゃ、感じるということでしょ」
「そうです」
「それがそもそも心眼から離れた証拠です。もし心眼で物事を見た場合、感じもしないでしょ」
「感じないのですか。じゃ、心眼で見たことさえ分からない」
「そうです」
「それは何ですか。研究はできないとおっしゃりながら、先生はかなり研究されたようですが」
「じゃ、結論を先に言おう」
「はい」
「戻りなさい」
「え」
「産まれたばかりの頃は無理ですが、幼い子供が実は心眼で見ているのです」
「方角が分かりました。真っ白な気持ちで」
「だから、無理でしょ。研究したとしても、活かせません。それを活かそうとするのは大人ですからね。そして心眼を開いた場合、幼い子供状態になったのと同じですよ。大人から見れば幼稚なことをやっているとしか見られませんからね」
「はあ、それはパラドックスだ」
「心眼とは情報じゃないのです。まあ、それでも赤ちゃんでも特定の気候や、特定の文化の中で産まれるわけですし、両親から引き継いだものも持っているわけですから、白紙というわけじゃありません。だから、元々心眼で見よ、などは無理な話なのです。一番それに近いのが赤ちゃんですがね。しかもまだ言葉を知らない。だから何語でも喋れるようになるのですが」
「今の話で、目からうろこが落ちました」
「昨日も落としていたよ」
「はい」
「一体君は、何枚目のうろこがあるんだ。それでよく見えるねえ」
「ポロポロ落ちますが、うろこは一枚です。すぐにまたうろこができます」
「あ、そう」
「まあ、そのうろこを磨くことでしょ。そのうろこが保護になっているのです。もし心の目で全てが見えてしまうと、これは周囲が困り、君はもう生活ができなくなります」
「大事ですねえ。目のうろこ」
「だから私も足の裏の魚の目はそのままにしています。取れるときはころりと落ちるのです」
「じゃ、心眼で歩くようなものですね」
「痛みがなくなりますが、元に戻っただけですから、特にいうほどのことじゃありません」
「じゃ、心眼を開く必要はないのですね」
「君は開くつもりだったのかね。学者は研究するだけでいい」
「あ、はい」
「だから、この研究はやめなさいと言ったのです」
「はい、分かりました」
 
   了


 


2017年11月3日

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