小説 川崎サイト



徒歩

川崎ゆきお



 倉橋は一週間ほど歩いていない。居間とトイレを往復する程度の運動量だ。会社役員も引退し、老後の真っ最中だ。
 もう、何もすることはないわけではないが、ずっと何かをやり続けた反動からか、動きたくない。
 倉橋を必要とする人間もいない。残っているのはプライベートな世界だけ。
「出かけてくる」
「散歩ですか?」
「そんなものだ」
「歩けるの?」
「歩けるさ」
 倉橋は家の中では普通に歩けるが、目的地までは数メートルだ。この距離で息を切らすことはないし、足腰が痛くなることもない。
 しかし、それ以上の距離になると不安になる。それでたまに散歩に出かけるのだ。
「ケータイ持って出てよ」
「持ってる」
「ちょっと寒いわよ。そのパーカーで大丈夫? 下にセーターもう一枚いるんじゃない」
「大丈夫だ。日差しがある」
 倉橋が散歩に出るのは一週間ぶりだ。家を出て、散歩コースの歩道に乗る。
 光が目映い。ややふらつくが、それは光線のせいだ。そして屋内と違い、つかまるものがないための浮遊感だ。
 歩道と車道がはっきり別れ、街路樹が続いている。歩道と車道の境目には草花が植えられている。散歩コースとしては申し分ない。
 倉橋は既に息が切れた。太ももの付け根に痛みもきている。
 家の中では一分以上歩いていないのだ。倉橋にとって数十分の散歩は長距離に当たる。
「お散歩ですか、お爺ちゃん」
「はい」
 近所の主婦に声をかけられたが、返す「はい」だけで精一杯だ。
「倉橋さん。どうですかな」
 今度は同世代の亀岡が声をかけてきた。歩き慣れしているのか、足取りは軽い。
「その靴、キツイでしょ、エアー入りがお進めですよ。それに無帽じゃ、日差しもキツイですよ」
「ああ、ありがとう」
 亀岡は足音さえ立てないで追い抜いていった。
 倉橋は苦痛に堪えながら数百メートル歩いた。
 亀岡が戻ってきた。一周したのだろう。
「毎日歩けば、伸びますよ」
「ああ、そうだな」
 倉橋はしゃがみこみたい気持ちを押さえ、Uターンした。
 何となく明日からの目的ができたようだ。
 
   了
 
 



          2007年5月11日
 

 

 

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