三文神話
世の中には作り話が多い。それが事実であっても歪められたり本質を隠していたり、また全くある箇所には触れなかったりする。
作り話の宝庫は神話だろう。これは何とでも言える。フィクションの始まりは神話だったのかもしれない。しかし、何らかのそれに近い実話があったのだろう。それを盛りすぎたり、または本来とは違う話にしたり、別の場所にある言い伝えを借りてきたりとか、これはフィクション作家にとっては宝の山なのだが、実際にはそこから学ばなくても日常の中でもそんなことをしている。
神話がやり放題なのは、昔話がそうであるように、昔々で始まる物語は、嘘ですよ。ファンタジーが始まりますよ、と、ことわっているようなものなので、間違えることはない。昔々で始まる話は聞いている側もそれは夢のような話で、決して現実に起こったことではないと知りつつ聞いている。実はとんでもない話や、珍しい話を聞きたい欲求があるため、話の展開が奇妙でも、そこは問わないことにしている。なぜなら真実を知りたいわけではないためだ。嘘を嘘として嘘を楽しむ。これは娯楽で、そのため、話は面白ければ面白いほどよい。
神話に出てくる神々など誰も見たことはない。それを作った人も見ていない。だから神とは概念で、姿形は適当。人がこの世にまだ現れていない時代の神様。これは絵にしにくい。服がまずないだろう。しかし裸同然の神様では、神様らしくない。この場合の神様は人の姿をしている場合だが。
神様の名前も、その神様が自分で名乗ったとしても、そんなもの聞いた人などいないはず。それを言ってしまうと、身も蓋もなくなるし、別の神様と区別するため、名前は必要だろう。ただ人名ではなく、山の神とか、海の神とか、その程度から始まったのかもしれない。
神話に出てくる人物と、実在した人物が重なることもある。この実際の話が神話の元になった可能性もある。人物の配置や境遇や状況が似ていたりする。
神話は神様の話だが、神代の昔の話なので、昔の話の中でもものすごく古い時代になる。時代さえないほど古い。当然それを作った時代が反映され、聞く人に分かりやすいように置き換えている。
神話に出てくる神様には感情がある。人間以上に。これは人が作った話なのだから当然だ。感情がなければドラマとしての盛り上がりに欠ける。背景描写だけだと地味すぎる。
それらの神話。実は今の時代でも作られている。だから昔の人がとんでもない神話を作っていたのと変わらないのかもしれない。ただ、それが神話としてどの程度残るかは分からない。だから現代の神話はほとんどが三文神話。二束三文の三文で、安い。つまり安っぽい話ということだが、神話へと持ち込もうとするのは団体だけではなく、個人でもそうだ。世間一般の神話ではなく、個人の神話。
そしてどういう個人神話を作るのかが、生きている間の流れかもしれない。そして、それは自然にやっていたりする。
都合のいい話、それもまた神話だ。
了
2017年12月5日