小説 川崎サイト

 

源泉聴衆

 
 ある体験がその人をずっと引っ張っていくことがある。個人の意見や考えなどは、ほぼその源泉はそこにあるように思うが、抽象的なことになると、これはあまり影響しないかもしれない。しかし、抽象的な事柄への接し方が違う。抽象的なことが苦手とかだ。これは体験から来ているのかもしれないが、その体験は感覚などの生理的なものかもしれない。生理的なものは反応で、それもまた体験。だから、苦手という意識は、やはり体験から来ている。生理的、感覚的、第一印象などは強いセンサーで、まずそこで決まる。
 たとえば苦手な相手ではないのに、顔が苦手、声が苦手だと、これは苦手な人になったりする。ものすごく恩恵をもたらせてくれる人なら別扱いだろう。それでも苦手は苦手、特に生理的に苦手というのは得点が高く、相手が悪いわけではない。好き嫌いのパターンがいつの間にかできてしまっている。
 異なる意見を聞くと不快になるのも、そのためだ。不快と言うほどでなくても愉快ではないし、快感を覚えるはずがない。できれば排除したい、または聞きたくないだろう。
 このあたり、実に素朴でべたべたな話だが、基本的にそうなっているのは確かだ。これは確かめたわけではない。アンケートをとったわけでもない。実はこれも自分が確かだと思っているだけで、生理作用とそれほど変わらないのだが、感覚的なものはものすごく強い。最初に来るからだ。
 人は見かけでは判断できないが、この人なら好意が持てるとか、この人なら大丈夫とか、この人となら話してもいいと思えることがある。これは初対面でもそうだ。そして、まだ接する前、向こうからその相手が歩いてきたとき、もう分かるのだ。その人はそんな人ではなく、思っているような人でなくても、嫌な人、良い人になる。これは困ったものだ。犬と犬との出合い頭のようなもので、相手の詳細を知る以前に、それとなく臭いで分かったりする。それは手前勝手なセンサーで、普遍性はない。
 それでは猫同士がうなり合っている状態と同じになり、高度なところでの意見の食い違いとかではない。しかし、高度と言っても結局猫の縄張り争いと同じようなもの。
 異なる意見でも受け入れて聞いてくれる人がいる。これは懐が広い人ではなく、そういう性格なのだ。おっとりとした、あまり争いを好まないような。考え抜き、修行でもして、そうなったわけではない。おそらくその人は小学校の頃から、そんな態度だったはず。
 つまり、できた人は最初からできており、飛び跳ねる人は最初から飛び跳ねている。それらは何処に発生源があるのかは分からないが、生まれつきという可能性もある。猫の子でも生まれたときから性格が違う。これは体格の大きさなどから来ていることもあるし、生まれたときから他の子猫に比べ活発で、元気が良いとかはある。これは体格とは関係のないことも多いはず。
 その後、体験を重ね、色々と知恵が付いてきたとしても、初期値の限界点のようなものがあり、初期値で伸び方も違うようだ。
 年を取ると子供時代の性格が出てきたりする。初期値に戻ろうとしているのかどうかは分からないが。
 人の性格というのは代えにくいのだが、チェンジを試みることはあるだろう。これはすぐに戻ってしまい、慣れないことはするものではないと、反省したりするのだが、一瞬ならいいだろう。誰かの物まねをやるようなものだ。ただ、そういうことをしないとやっていけないこともある。本人の人柄ではやりにくいような行為を。
 本音と建て前といううまい言葉がある。そうなるとデータ化が難しく、センサーの反応だけでは一面的になる。
 先ほどの生理的反応を、皮膚感覚とも言うようだ。触覚。この触覚にもレベルがあり、甘い物を感じても、甘いとだけは感じないような高度なレベルもある。一を知って百を知るわけではないが、一瞬にして全体を把握できるのだろう。細々とした詳細は知らなくても。
 そしてそれは知識以前の何か、知恵でもなく。
 言い得ないこと、解析できないこと。当然それは説明などできない。五感にもう一つ足した第六感なのかもしれないが、これは感覚器官による反応ではないのだが、内臓とか、筋肉とかが働いているのかもしれない。その代表が血だろう。
 その源泉は分からないにしても、好き嫌いとか、生理的とかいわれているところに出てくるようだ。これを馬鹿にしてはいけない。理性さえも生理的な影響を受けているのだから。
 
   了


2017年12月15日

小説 川崎サイト