小説 川崎サイト

 

引く人

 
 岩田は引き際がいい。よすぎるほどで、これは諦めるのが早すぎる。あともう少し粘っておれば引かなくても済む場合もあるが、引かなければいけない状態が、もう嫌なのだ。何かケチが付いたような感じがし、さっさと引いてしまう。
 当然会社を辞め倒している。「そんなことでやっていけるのかね、君」などと仕事中説教されると、やっていけないかもしれないと思うのだろう。やっていけないことはやってはいけない。単純明快な解だ。しかし、この説教は問いかけているだけで、仕事に関しての態度を言っている程度かもしれない。しかし、やっていけるかどうかを自分で判断しなさいといっているのなら、即答で、やっていけないと答えてしまうだろう。
 そのため「やめてしまえ」などと言われると、明日から来なくなるのではなく、その場でやめて、さっさと帰ってしまう。引き際がよすぎるのだ。
 流石にそういうことが積み重なると、経験値が溜まり、そうならない職場を一応は探す。だからチームワークが必要な職種は駄目。引くきっかけは仕事の内容ではなく、職場での人間関係だろう。そこでのひと言が引き金になり、引いてしまうのだ。
 身を引く。それはいいことでもある。適当なところで、ほどほどのところで引き、しつこく粘ったり、深追いはしない。また早くやめて欲しいと思う人が多くいると、さっさとやめた方が喜ばれるだろう。
 嫌な人がいない職場では、逆に仕事がきつかったりする。本当にできなかったりし、努力もしないで、さっさとやめてしまう。力のないものが同じ給料を貰っていれば、同僚にも悪い。岩田の分まで同僚がフォローしているのだから。
 それで、引き続けているうちに最果てまで来てしまった。
 そしてウロウロしていると、引きの大将と出くわした。引くことに関しては、岩田など足元にも及ばないほどのベテラン。その引き際の早さは見えないほど素早い。
「どん詰まりに来てしまいましたかな」
「はい」
「すぐにやめたり、身を引くのが得意なのでしょ」
「そうです。得意すぎます」
「分かる分かる。みなまで言うでない」
「はい」
「わしはその道のベテランだが、引き際が早すぎるやつほど実は粘り強いのじゃ」
「はあ」
「しつこく食らいつき、餌を放さない犬のようなもの。歯が抜け、顎が外れてもまだ話さない」
「その逆です」
「いや、君は引くことをやめない。これだけはしつこく守っておるではないか」
「守るも何も、自然にそうなるのです」
「だから天才だ。作為なしでできる」
「はあ、でもこれが一番簡単ですよ。すぐに諦める方が。そしてすぐに負ける方が」
「実はそういう人を求めている場所がある」
「本当ですか。まさか浜で地引き網を引く仕事じゃないでしょうねえ」
「違う」
「本当にあるのですか」
「あるわけない」
「そうでしょ」
「しかし、先ほども言ったが如く、君のようなタイプはもの凄く根気あり、努力家で、どんな困難でも立ち向かえるタイプなのじゃ」
「そんなバカな」
「だから裏返しじゃ」
「え」
「裏返せばいい」
「ああ、なるほど」
 それで岩田は鬼のデングリ岩というところに連れて行かれ、そこで裏返された。
 その後、引き際の悪い人間になり、途中で諦めないしつこい人間になった。
 しかし、どうも性に合わないことが分かり、またあの大将のところへ行った。
「戻してくれじゃと」
「はい、またあのデングリ岩で」
「裏返しすぎたようじゃな。よしよし」
「今度は腹を下にした姿勢からひっくり返すのではなく、その中間の横へ少しだけ返そう。どの程度がいい。返しすぎると、今とは正反対になる。角度を調整するから、いいなさい」
「中程が好きです」
「あ、そう中程か。今なら微調整できるぞ」
「中程でいいです」
 これで適度になったのか、岩田は普通になった。しかし老人の調整が悪いのか、中間だと言ったのに、まだ少しだけ引き気味だった。こういうものの中間を出すのは難しいようだ。
 その後、岩田は今までのように極端に引くようなことがなくなり、長く同じ職場にとどまった。
 
   了


2018年1月11日

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